不可視の蝶
僕は昔、祖母の家に行くのが好きだった。
祖母の家まで三時間くらいかかる。町まで電車で、あとはバスで行く。周りは山で、緑色の中にへばりつくようにちまちまと家が百何件かあるくらいの、小さい町だった。僕は夏休みの間十何日かくらいそこにいて、ここだけで会う友達と一緒に毎日川で泳いだり、缶蹴りをしたりしていた。 僕はその家を探検してやろうと思っていた。そしてその機会は案外早くやってきた、なんだか暑い夜にふと目を覚ますことが出来たのだった。いつもはこんな事はない、毎日毎日ぶっ倒れるまで遊んでいるから。そんなことを考えながら、川まで走った。空気は暗く澱んでいて、水のにおいがした。家は相変わらず古びていて、庭の草木は枯れていた。僕はこっそりと垣根の間の隙間からしのびこんで、縁側の障子に手をかけようとしたとき、いきなり後ろから冷たい手が僕のパジャマの肩に触れた。息が止まるかと思った。窓の向こうに一匹の蝶の死骸が見える。ぴったり十秒数えてみて、まだ手が僕の肩にあることを確認してからぎこちなく振り返ると、手の持ち主である人が僕のことをぼんやりとした目で見ていた。思わず、足があるかチェックした。細い棒っきれみたいな足が、黒いズボンに包まれてあった。どうしてか裸足なせいで白い足の甲が浮いて見えた。少し安心。 その人は「あさいさん」という名前だった、病気の療養のためにこの町にいるんだと云った、あまり外に出ないのはそのせいだとも。確かにあさいさんは色白でほっそりして、病気だといわれれば納得できそうな容姿だったけど、川底の石みたいに光を吸う目や形のいい唇に、僕はなんだか少しどきどきしながら、出されたコップを握りしめて、中の水を見ていた。 それから、僕は良くあさいさんの家を訪れるようになったそのとき、一つ気が付いたことがあって。それは僕を激しく落胆させたのだけど、あさいさんが男だったということだった。確かに案外大きな手とか線の浮いた首筋を見ると、それに納得せずにはいられなかったけど、少し丸みを帯びたような体のラインと、肩辺りで切りそろえた黒髪や、曖昧な緩やかさを持った二重の瞼は幼い僕でもなんだかよく分からない気持ちになるような代物だった。 それでも僕はあさいさんの横顔を見るのが好きだった。その太陽に照らされたことの無いような頬が電気の元で輝くのも、カップに当てる唇が少し上を向くのも、僕の方を向いていてもぼんやりと突き抜けていく視線も。全くあさいさんは額縁に入れた飾りたくなるような、そんな人だったのだ。黒髪のせいか、物腰や言動のせいか少し古風な雰囲気がついて回る。あまりに通いすぎたせいか、あさいさんはある時僕にここに来る理由を尋ねた。僕は貴方が気になるんですとも言えず。しどろもどろになりながらこう返した。 「貴方が庭の木々に水をやらない物だから、すっかり萎れているじゃないですか。僕はみっともない庭は嫌いですから、水をやりに来てるんです。」 手品の種は今も分からない。 彼は本をよく読んでいて。その本自体が今では割合するらしき古書の類だったせいもあるが、肘掛け椅子に座り、眼鏡をかけて、皮装丁や布張りの豪奢な本をゆっくり捲っているその姿は本当に一枚の絵のようだった。ある日彼は僕にこれなら君くらいの子でも読めるでしょうと言って一冊の本を貸してくれて、それは僕が居ようと居なかろうとときおり本に没頭してしまう彼が示した詫びの行動かもしれなかったが、僕が読んでいた漫画などとは全然違う挿し絵や、箱入り布張りの美装さが、今までろくに本など読まなかった僕にもそれがよい本だという事を分からせた。 あさいさんは僕のためにそれを少し読んでくれて、その一説だけは今でも覚えているが、それに続く言葉は今も思い出せないでいる。そして同じように、あさいさんのことも僕は良く思い出せないのだ。彼と別れたのはいつだったのか、それすらも。いつしか僕は夏が来てもおばあちゃんの家に帰らなくなった でも、今でも時々思うのだ。あの電車とバスを乗り継いでいった田舎の片隅に、古びた木造の平屋が建っていて、人形のような少年が、今でも誰かを待っているかもしれないと。確かめることは、たぶんもう一生無いだろうけど。 あの凍った月はまだ光っているのだろうか。
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