高速バスのカーテンの隙間、窓の外から漏れてくる灯りはなぜか透き通った緑色だ。ミッシェルガンエレファント※の真似をして名前でも付けてやろうかと思ったけれど、その一つ一つを個別に認識する前に彼等は後ろに流れていくので難しい。

 横に座っている月子のあたまが私の肩に当たっている。頭蓋骨の気配が重い、髪越しに感ずる人の存在も重い。二つに結わえた髪に引っ張られて分け目がすっとそれを二分している、皮膚の張っている不思議さと生えている髪が裏側に蔓延る不思議さ。白の中から力強く生える黒。さっきから煩いと思っていたのだけれど、耳に引っかけるタイプのイヤフォンからは微かに耳慣れた音楽が聞こえてくる。そうだよねえ、と呟く。頭のなかで。私達バンギャだからヴィジュアル系だよねえ、でもなんかミッシェル好き多いよね、何でだろうね。あとバックホーン※とシロップ※好きも多いよね。でもバスで聞くべきはヴィジュアル系だよねえ、ヘドバン※と逆ダイ※でぐちゃぐちゃになりにこんな狭いバスなんかにキュウと乗ってるんだものね、と思う。

 八月の高速道路はこんな真夜中でも結構な交通量らしく頻繁に乗用車やトラックとすれ違う。あの中にそれぞれ人が居てそれぞれの事情でこんな所を走っているということを考えるとぞっとする。それはこの車内でも同じ事で二階建て四列の座席が詰め込まれた、まるで走る蜂の巣やカプセルホテルみたいなそんなバス。いつか読んだSF小説のことを思い出した、積み重ねられたプラスチックのコフイン。なんであんなもの読んだんだっけと考えて、確かカリガリ※のソロの時、秀仁さんのバンド名の由来がそれだったんだよな、と要らないヴィジュアル系トリビアに耽る。

 一体この夏にどれだけの人が東京に行くのだろうか。コミケとかもあるから凄いことになってるんじゃないかと言うのは何となく解る。私はオタクではないけれど横で眠る月子は微妙に気質を持っている。彼女に言わせるとニッポンの経済はオタクが動かしてるんだそうだ。そのことに別に何を言う気にもならないけれど、そこにバンギャも入れて欲しいと思う。

 バンギャというのも上手い言葉だ、なにせ語呂が良い。ヴィジュアル系バンド好きなギャルでバンギャ、分かりやすい話だ。惜しむらくは普通の人に全然普及してないところ。説明も面倒くさいので「追っかけだよ」と言う事にしているが、どちらかというと気質の話になるんじゃないかと思う。一学年に一人から数十名、必ず居る女子の一種。黒い服を着て、黒いアイラインを引いて、厚底靴を履く。まあ、そうでない子もいるけれど。私も月子もバンギャだ、月子の足先はミホマツ※の紐がいっぱい掛かった黒の靴で、私の足先は黒のラバーソールで、お互い靴下はしましま。笑ってしまうな、ベタベタだ。

 月子が怠そうに体勢を変えた。浅い眠りなのだろう、睫が揺れて緑に染まった頬に影を落とす。バス配給の毛布はらくだ色でのんびりと彼女の上にかかっている、それは本当にのんきな景色だ。安いバス用に作られたのだろうか、それは彼女が丸まろうとするにはあまりにも小さい。らくだの毛布か、と思う。緑の光が、月の光だったらいいのに。向かっているのは東京砂漠だし。

 咽が渇いたが、据え付けの小さなテーブルに置かれた紙パックのアンニンミルクティーは空っぽ。車中は冷房で寒いからと見くびっていたのが裏目に出た。空気が乾燥しているので、目を覚ましてしまうとやたらに目や咽が渇く。確か頭上の荷物置き場の鞄の中に、まだ未開封のペットボトルが突っ込んであったと思う。月子の頭を押しのけて、立ち上がる。五列、目前に人の頭。そしてカーテン。マジックテープで留められたカーテンは見事に外界とバスとを遮断していたが、多分、ゆっくりランプが渦巻いているはずだ。大阪から東京への、安価且つまともな夜行バス。夏休みは満員。そりゃそうだ、片道四千八百円、しかも寝てれば着くんだから。

 すやすやと眠る月子を疎ましく、思う。別に私だって不眠症というわけではない。普通の神経を持った人間はなかなかバスで熟睡出来る物ではないと思う。私を普通と呼べるのかは少し疑問だが。妙な妄想癖があったことはある、自分の意志とは別に世界が歪む経験をしたことがある。月子に言わせるとそれはバッドトリップに良く似ているらしい。彼女か何かそういう薬をやっているとは知らなかったよというと、バッカ例えよと怒られた。とにかく今は、そんな経験はない。

 少しなら眠れるがすぐに目は冴えてしまう。またうとうとして、そして起きて。水面すれすれを飛ぶ飛行機のようだ。ほら、翼が、飛んで、水の上。比翼が切り裂く水面の白いライン。灰色を、叩いて、眠って、沈んで、浮き上がって、飛ばされて。眠りなよって、沈んで、また、夢の中。

 

 なんだかプラスティックトゥリー※の歌詞みたいだな。

 

 灰色のぼつぼつとした細切れの眠りは、悪夢と相場が決まっているようで、私はバスの中で見た夢にろくな想い出がない。大体が昔のことだ。中学生の頃くらいの、嫌な想い出が重い蓋をなんとがギリギリ持ち上げてやってくる。手を伸ばし私を飲み込もうとする。

 私は妄想癖のある子供だった。小さい頃はイメージによく捕らわれていた。今はもうそんな事はない、最後にそんな白昼夢をみたのは十四歳だった。今日の夢はその夢だった。舞台は当時行っていた中学校の校庭。私は制服、緑色じみた灰色という絶望的なジャケットと細かい細かい千鳥柄のスカート、中途半端な大きさのリボンを首に巻いている。そうだこれは確か首周りがゴム製で大嫌いだった。どうせなら一本の細い布リボンにしてくれれば少しは好きになれたかも知れない。リボンは黒かった。そこだけ現実と違っていて、私はああこれは夢なんだと思った。懐かしいとは言い難い嫌な想い出の中のリボンは、趣味の悪い赤紫だった。じゃあ一本のリボンなんだろうかと指を襟元に突っ込んでみたが、ざらつく手触りが伝わってきて、やっぱりゴムなんだと嫌な気分になった。

 空は晴れている、私は校庭に座り込んでいる。無理矢理引っぱり出された昼休みだ、いつもは教室で本を読んでいるか、寝ている。このころは音楽をあんまり聴いていなかった。太陽は馬鹿のように明るい。乾いた土からの照り返しで白い地面に影が焼けつきそうだ。咽が乾いている。足下に転がるボールが、気が抜けたような薄汚れた白で地面と同化している。熱い。私が着ているのは冬服なのに。ほんとは何時だったか、思い出そうと思ってもよく解らないのだ。

「あー」

 なんの意味もなく、声が出た。肺を潰して漏れた空気が声帯を震わせて青空に消えていく。変にくぐもった声で、おかしいなと思って口に手をやると指先が濡れた。見ると赤い、鼻血かあと冷静な頭で思った。注意をすればそこら辺、ボールも地面も点々と赤かった。私の回りに沢山人間が居た。ぐるりと辺りを囲むように立っている、手持ち無沙汰に。教師命令で無理矢理友達の居ない可哀想な子を、つまり私を、昼休みの校庭に連れだし、クラスの大半が興じるドッヂボールの輪にほおりこみ、思い切り顔面にボールを当ててしまって途方に暮れている。

「鈍いんでさ、悪いね。ごめんね」

 状況を何とか打破しようととりあえず謝る。血が、手の隙間から地面に落ちた。なかなか止まらない。熱い、と思った。

 どんどん血は流れていって、いつの間にか私の周りは赤い水たまりになる。これは夢だし、このころの私には幻覚はいつものことなので、落ち着いている。広がっていく血に触れる同級生達はさらさらと崩れて赤い液の中に混ざり込み、ああ、そういやエヴァンゲリオンにこういう赤い水でてきたなあと中学生の頭でぼんやり考える。あれは、透き通っていたどさ。赤い水は増え続ける、いつの間にか鼻血は止まっている。どこまでも水は広がっていく、嵩を増して、何時の間にか座り込む私の足も太股も、腰までも来てしまっている。

 もう私の周りには誰もいなかった、校舎や校庭を囲むフェンスですら血の中に溶けてしまっているようだった。このままここで死ぬのだ、私は溺れて死ぬのだ。私の血に、嫌いな人たちの間に、校舎に、世界に、私自身の妄想に溶けて死ぬのだ。そう思った。目を閉じた、開いた、相変わらず世界は赤かった。もう一回、閉じた。死ぬと思った。

 開けたら白かった。驚いて跳ね起きた、起きる、と言う行動に心当たりが無くて変な気分になった、私は寝ても倒れてもない。辺りを見渡すと、見慣れた保健室だった。

 妄想の中途半端さにはいつもいらいらする。どうせなら殺せと思う。携帯が鳴る。ポケットの中から引っぱり出す。貧相な、単色の画面がオレンジに光っている。ああ、そうだ、夢なんだよ。私は自分に言い聞かし、メールを開く。目を開く。

 

 車内は明るかった。バスの中ではろくな夢を見ないな、小声で言うと、そうだね、と横で月子が笑っていた。

「なんかへんな夢見ちゃってさあ」

「どんなん?」

「バイト、あ、スーパーね。レジ何時も通りやってるんだけど、なんかでっかい商品持ってこられちゃってね。カゴからなんか棒みたいなのがたくさんはみ出してて他にも色々山積みで、途方に暮れるという」

「なんか大変だねえ」

「うん、びびったー」

 そんなことを言いながら、月子は楽しそうに笑っている。化粧をしていない顔を見るのは久しぶりかも知れない。後少しでもう新宿に着くよ、と言う顔には眉毛が無くて。

 月子と私が好きなバンドは違うバンドで、しかもジャンル違いと言っても良さそうな位のバンドだったが、今回、なぜか対バン※が何カ所か重なったので、もうなかなかこういうこともできないだろうと大学二回の夏休みだがおっかけツアーのようなものに二人で行くことにした。ちなみに月子が好きなのは若手のコテ※で、確か名前はエンデ。私が好きなのは地下室系※で、ひねくれた歌詞を書く人たち、スパングルという。

 バスはもう新宿へ着いた。月子は出身こそ私と同じ大阪だが、こちらの専門学校へ通っているため今は恵比寿に住んでいる。それなりに早い時間だというのにJRは結構な混雑具合で、今が何時なのかそれすらも、よく解らなくなってしまう。

 携帯を改めると、バンドマンの写真の手前に小さな時計がちかちかと、未だ七時前の数字を晴れやかに示していた。山手線は案外早く私達を恵比寿に運んだ。月子の家を目指す道の途中でちらりと見えた建物に何となく見覚えがあった。そういえばリキッドルーム※が近いんだった。なかなか行く機会がないけれど耳慣れた名前に、少し笑いたくなる。

「なに笑ってんの」

「リキッドルーム近過ぎだなとおもってさあ」

「ギルティ※も近いよ。この道少し行ったトコ」

 また偶に聴く名前を出して彼女は道の向こうの方をその白い指で指す。

「ライブ行きやすそうだね」

「そうでもないよ、リキッドなんかそうそうやらないじゃん。ギルティーもジャンル違いっちゃジャンル違いだし」

 明け方の東京はすがすがしいとは言えない空気で、水分過多に粘り着く。白い半袖のTシャツから、夏の植物の様に伸びた月子の腕は美しい。普段は装飾的な服を着るのに、バスの時は随分軽装だ。寝にくいの、と言っていたことを思い出す。二重に重ねたパニエは、確かに座るのには向かない。

 コンビニでサラダやパンを買い込んで、学生用アパートの一室に滑り込む。随分狭いその部屋は、ロフトベッドと小さな机にほぼ占領されていて、玄関入ってすぐの作りつけの冷蔵庫やちいさなキッチンもキュウと収まっている。ごちゃごちゃと物の多い部屋は、窒息しそうなそんな気分にすらなる。少ない面積の壁をふさぐように机が置かれ、ベッドの下のスペースはオイスターグレーと橙のロッカーが交互に置かれ、上の空間はヴィジュアル系バンドのポスターで占められていた。

 その辺に座ってー、なんてそんなことを言われても、雑誌やCDや服が適当に積まれ、どれから移動させて良いのか、よく解らなかった。

「とりあえずシャワーかかりますよ」

 のそのそとタオルをベッド下の収納から引っぱり出しながら月子は言う。とりあえず雑誌を机の上に置かせて貰うとスペースは出来た。ベランダに通じる窓の縁に腰掛けて、バスルームから聞こえる水音を聴くともなしに聞いていると、またいつの間にか眠ってしまっていた。

 今度は夢も見なかった。

 頬に冷たい物が当たっている。無理矢理目をこじ開けると月子が笑っていた、変な体勢で、フローリングの上に寝てしまっていたのでどうにも躯が痛い。冷たいのは紙パック入りの野菜ジュースだった。彼女は気の抜けたTシャツとハーフパンツではなく、セーラーカラーの黒いシャツと、赤と黒の柔らかな布が重なった非対称のスカートを穿いている。

「私、今日バイト入っちゃってさ。行くね」

 私が寝起きのぼんやりさで曖昧な返事を返すと、彼女は随分大人びた顔でクスリと笑った。いつからこんな風に笑うようになったのか、考えてみてもまだ眠たい頭は霞が掛かったようなもので、特に何も思い出せない。

「これ、合い鍵。今日帰ってくるの?」

「多分、呑んでる」

「ワンマン※だもんね。じゃあね」

 正しくはワンマンじゃなくてツーマン、と言いそうになって、そんなことには別に興味がないだろうから黙る。月子が好きなのはどちらかというとコテオサ系※のバンドだから、私が好きな、よく「独特の世界観を持った」と言われるような人たちにはさして興味がないのだろう。

 私と月子は、同じバンギャなのだが、好きなバンドは同じではない。もともとバンギャというのがビジュアル系好きな女の子、と言うだけでどんなバンドだって……、例えばエナメルに半ズボンに黒いファーでエクステつけて、みたいな雑誌を捲ればいる、ヴィジュアル系らしいヴィジュアル系、というバンドから、スーツでメイク薄めで爽やかラブソングな人たち。ポップでキッチュで明るいテンションのバンドから、果てはなんとも言えない変な曲に小難しい歌詞に顔面真っ白に塗ったりして学生服や軍服、という説明しにくいバンドまで全部ビジュアル系だし、ファンの女の子はバンギャだからだ。

 今日のライブは私の好きなバンド、「スパングル」と普段仲がいいと言われる「昭和百年」のツーマンライブだった。初めは月子も誘ったのだがどうにもバイトが休めずに駄目になった。ある意味良かったのかも知れない、私にもスパングルを見に行けば会う友達が居る。もう少し経ったら、彼女たちと会うために行かなくてはいけない。

 ハチ公前というベタな待ち合わせ場所だったが、簡単にミカさんを見つけることは出来た。白に近い金髪は、ボブより少し短いといえるほどの長さでも目立つ、細身の体に水色の綺麗な細かいプリーツの入ったキャミソールを着て、薄手の濃紺のカーディガンをだらっと羽織っているのが、個性派おしゃれなんて言葉が馬鹿らしいほど似合う。黒地に白の水玉の薄いスカートに、足下は艶のある木製の下駄のようなサンダルだった。鼻緒の朱が爪とお揃いで可愛い。

 こちらに気付いたようににっこりと笑う顔にはプラスチックのやっぱり朱の眼鏡がかかっていて、テディベアみたいな髪より少し濃い色で短い眉毛が書かれていた。

「お久しぶりデス」

「何時ぶり? 最近あんまり会わないよね」

「スパングルと対バン減りましたからね」

 眼鏡を触りながら、ちょっとずれたアクセントで軽く頭を下げる。お互い別の事務所入っちゃったからねえと言いながら、可愛いヒトだなあと全然違うことを考えている。スパングル嫌いじゃないんですけど、やっぱり本命盤いるんで。でも今年は対バン多いですよね、これからも、大阪、名古屋? と話しているとミカさんの横に立っていたすらりと背の高いお姉さんという雰囲気の女性が少し驚いたように目を丸くして言った。

「えー、何、彼女スミレコ?」

 バンギャの間ではよくファンを指すのに独特な言い回しを使う。スミレコは「スパングル」のファンを指す語だ。初期の歌に、菫の子、というタイトルがあったから、スミレコ、と安直な理由で付いているらしい。お姉さんは判りやすくバンドTシャツを着て、カラフルな粒の着いた不思議な毛糸で編まれた長いストールを首回りにくるくる巻いていた。素っ気ない八分丈のジーンズと同じようなデニムのキャスケットと白いTシャツと、ミカさんとお揃いの、鼻緒の色だけ目が覚めるようなアクアブルーのサンダル、多分ミカさんよりは年上なのだろう。不思議に落ち着きのあるすっと伸びた若い枝みたいな人だった。

「コチラは水乃さん、バンギャ上がりかけでしたがスパングルにハマってまたおっこちた人です」

「落っこちたは酷いなー。あ、そうか、貴方が真知さんか。ミカから話は聞いてます、新規スミレコですが、よろしくー」

 言ってにこにこ笑う。

「未だ時間ありますけど、どうします?」

「あ、今日久しぶりにアレなんですヨ。コス」

「へえ、今の?」

「当たり前デスよ。柚木コスですよ、自信作」

「じゃ、店探しながら行こうか」

 ソウデスネ。日本人なのに何故こうも片言気味なのかなあと、いつも不思議に思っているのだが。ミカさんに初めて会ったとき、彼女は昭和百年こと「モモトセ」のヴォーカルの柚木のコスプレ※をしていた。私の地元である大阪で、江坂のまだブーミン※だったライブハウスに行くために、駅を降りて歩いていると声をかけられたのが知り合ったきっかけだ。

「スミマセン、ブーミンってドコですか?」

 その時の柚木コスは、黒い口紅を滲ませるあの密室メイクに、軍服をアレンジしたオリーブグリーンの衣装だったから、かなり町中で浮いていた。その格好で礼儀正しく、しかも少し照れたように笑いながら道を尋ねられたものだから、私は悪いと思いながらも笑ってしまった。その時彼女は同じバンドの他麺※コスの友人を何人か連れていたので、その一団はまるで町中から遊離するように見えた。

 好きなバンドこそ違えど、映画や漫画の趣味はよく合ったので私達は偶に遊ぶくらいの友達になった。私とミカさんは実は一つしか違わなかったのが一番の驚きだったかも知れない、コスをしているミカさんは少し年上に思えた。メイクや服の力は凄いなあとつくづく知った。ミカさんは三重の人だったのでライブやインストが無ければ大阪に出てくることはそうそうなかったが、それでも度々は、映画など見に出てきたので、その際には私を誘ってくれていた。ミカさんは東京の学校に進学したし、ここ最近は、スパングルとモモトセはお互い別々の事務所に入り、その事務所関係の対バンが多くなったもので、地元である東京はともかく大阪ではあまり一緒にやることは無くなっていた。

 歩く道の先にロッテリアを見つけて入る。特にお腹が空いているわけではないので、ポテトと飲み物くらいしか頼まない。ミカさんはオレンジジュースを注文するだけして、トイレに行ってしまった。着替えをするのだ。

「えっと、水乃さんはしないんですか」

 さっき言われた名前を思い出しながら聞くと、彼女は何を? と不思議そうな顔をして逆に尋ねてきた。

「コスとか」

「いやあ、流石にもういい年だからねえ。派遣とはいえ社会人だから、なかなか、髪色とか」

「ヅラで良いじゃないですか」

「やるなら完コスっしょ」

 どうでも良いことを話しているといつの間にかトレイの上に飲み物や食べ物がきちんと準備されていた。それを持って水乃さんは階段を上る、私も続く。禁煙のフロアを無言で通り過ぎてしまうので、ああ、そうか煙草を吸うのか、なんて事が解る。私もミカさんも煙草は吸わない。

「コス、してたコト有るんですか」

「あるよー」

 何コスですか? と冗談混じりに尋ねると、笑わないー? と彼女自身が怠そうな笑みを浮かべて訊いた。

「大昔に、プラコス。タロ※を一瞬だけだったけど」

「あー、あー。なんか納得ですわ」

 黒髪の美しい彼女は確かにそれが似合うだろうという雰囲気があった。自分の身近にはコスをしようというひとがせいぜいミカさんしか居ないので、珍しくてついつい何時ごろやっていたんですかなんてそんなことを喋っていると、ミカさんがやってきた。既に衣装を着込んでいる。緩く花柄の着物を着て、帯をだらりと結んでいた。頭にはビーズと布で作られた綺麗なコサージュが着いていた。

「うわ、コレ手作りですか」

「着物は古着ー。帯は作り帯でッス」

 楽しそうににこにこ笑う。ミカさんはとても器用な人なので大体の衣装を自分で作っている。服自体も好きらしくて、進学は東京の専門学校にあっさりと決めた。月子もジャンルこそ違えど専門学校へ行っている。私は大阪の、公立の学校になんとかすべりこんだ。大学へ行ったことを、後悔することはないけれど、自分のやりたいことをちゃんと決めて、進んだ彼女たちのことは偶に羨ましくなる。私には何もない。大学を選んだときだって、経済的に恵まれているとは言い難い家に遠慮をして、学費のことも考えながら選んだのだ。このツアーの旅費だって少ないバイト代から何とか工面した。いまでも自分が何のために勉強をしているか、よく解らない。

 机の上に化粧品を並べて、ぱたぱたとメイクを始めたミカさんを見ながら、ぼんやりとなんでみんなこんなにマジョマジョ※とアナスイ好きかなあなんてそんなことを考えている。手際よく、彼女はファンデーションを塗り、アイラインを引き、眉を書き直した。そうかこの金髪はコスプレのためだったんだな、と思う間もなく見慣れたバンドマンに良く似た、普段のミカさんとはかけ離れた人間が出来上がっていく。

 一時間ほど居たのだろうか、最近の曲やファンの傾向について水乃さんと話しているうちに、ミカさんは髪をいじり終え、どうかな、と訊いた。

「ばっちりですよ」

「行きマスか」

 立ち上がると下駄の足が、固い音を立てた。

 ライブハウスの前にはなんとも形容しがたい少女達が既に沢山集まっていた。説明するとすれば、黒が多いとそれくらいだ。コスプレのミカさんはその中でも随分目立っている。背筋を伸ばして歩く姿は綺麗だ。本物に負けないくらいに綺麗だ。ライブハウスのスタッフがチケット番号を叫び始める。ミカさんの番号だけが少し早く、私と水乃さんは似たり寄ったりの番号だった。

 じゃあお先に、とミカさんは下駄をカラコロと鳴らしながら列に並ぶ。私はぼんやりとしながらそれを見送った。

「スパングル優先かと思ったら違うんだねえ」

「出順じゃないですか、そのまま。ツーマンだし」

「かもねえ。あーコスたのしそうだなー。ちょっとやりたいなあ」

「出来そうですけどね、アキコス」

 スパングルは厳密にはバンドではない。打ち込みとベースをメインにやっている三ツ葉と、歌詞や歌を引き受ける晶彦のユニットだ。その時々でサポートメンバーを入れたりするものの、ちゃんとしたメンバーとして固定した人は居ないはずだった。今はギターの桜貝と言う人と、エレキバイオリンの灰原、という人がサポートで居る。

  私は良くは知らない物の、前の経歴がなかなか愉快な人らしくて、彼等にもファンが付いている。特にバイオリンの灰原さんは元々ヴィジュの人では無いらしく、なんだか色々うわさを聞く。

「アキもいいけど、灰原コスもしてみたいかも」

「えっ、髭どうするんですか」

 付ける! と言ってにやっと笑った

 並んだ列がゆるゆると動き出して、狭い階段を下りていく。

 ライブハウスの中はそれなりに混んでいて、これから未だどんどん人が来るのかと思うとすこし怠いようなそんな気分になった。壁際の床の隅に荷物を寄せながら、どの辺で見る? と水乃さんが聴くので、まんなかへん、と返しておく。私三ツ葉見たいからもう一寸上手寄るわ、と言いながらも、まあいいか、と呟いて別に移動するでもなく立っている。初めて来たがラママ※は随分と変則的な形のライブハウスだ。菱形めいている。ドリンクカウンタ※が、電飾や発光する大きなソフトクリームの看板できらきら派手に飾られているのが目を引いた。大きな柱の横に陣取って、始まったら前に行こうとそんなことを考える。舞台上は二つのバンドの雰囲気に合わせたのか、アンティークじみたレトロなものたちで飾られていた。コサージュを目印にミカさんを探すけれど見つからない。ライブハウスに入っちゃったら、やっぱり取るのかなと呟いて諦めた。そのままぽつぽつと喋っていると、ふっとSE※が止んだ。左の方でわあっと歓声が上がる。無理矢理に躯をよじってみると、奥から繋がるように設けられた花道を、モモトセのメンバーがゆっくり歩いてくる。

 皆、着物をだらりと着て、一番奥をゆっくりと歩く小柄な人影だけが一際赤い、美しい色の着物を着ている。他のメンバーは紺や抹茶色なので、より目を引く。コサージュやリボンで作られた飾りはきらきらしく、目の回りにべっとりと塗られた黒を際だたせた。女の子が甲高い声で咲く※、誰かが場違いに裏返った歓声を一声上げる、その必死さに思わず笑ってしまうが、別に私だって何も言えない。バンド見に、いったい幾ら払ってんのか、知りたくもない。

 早いドラムカウント、跳ねるように動く腕、マイクスタンドには真っ赤なリボンと、意味不明の言葉が書かれたビラ。白昼よりも強い照明が灯る。落下した太陽みたいだ、灼かれるなら本望。背中が熱い。誰かの体温。ぶつかって詰めて揺れて、それでも女の子の匂いがするのに笑ってしまう。

「ショウワモモトセです、有り得なかった歴史を見まショウ」

 男の人にしては少し高い、そのしゃべり方が少しミカさんと似ていると思って笑ってしまった。違う。ミカさんが似せてんだよ。

 ちょっと後ろ目でまったり見ようなんて、出来そうになかった。絶叫にも近いうたで、人間一塊りどおっと動いた。久々だったけど一曲目、知ってる歌でよかった。飛び込むべきタイミングを、私は覚えている。

 ギターの人がチェンジしてからやたら巧い、と言う噂は聞いていたけれど、そんなに前面に出るタイプでも無くて、声がよく伸びる水彩絵の具みたいに鮮やかにその上をつるつつと彩っていくのが、よく分かった。うたっているのは、さびしい感情で、スパングルと仲が良いのも、なるほど納得といったふうだった。キーボードのいる珍しいバンド編成が似合いすぎて怖いほどだ。ピアノめいた悲しい旋律がふわっと流れた後に重なる歌声は、鳥肌が立ちそうなほど綺麗だった。それを裂くように響くドラムを一瞬憎いと思うほどだが、バンギャの性で考えるよりも早く右手を掲げて前に突っ込んでいた。

 折り重なってギュウとつぶれて、目の前数メートルあるかどうかのところに投げ出された柚木の白い足に一瞬見とれて、ごめんミカさん、あんた綺麗だけどこのステージの上の人にはかなわない。光量に負けて、手を差し伸べて、それでも動かない距離を、ステージとこの下の鍋の中みたいなぐっちゃり具合の断絶を感じている。

 じゃーんって、みんな一緒に楽器鳴らして、柚木が跳ねて、そんなベタベタな終わり方をして、まだ叫び声が続くのにあの花道をとおって帰っていく、白々しい楽屋へ。

 照明が落ちて真っ暗。童謡めいたSEが何曲か流れた後、オルゴールのせつないものにかわる。スパングルだ。疲れているけど、大丈夫。早く見たい。背中をとんとんって、水乃さんが叩く。にっこり笑ってさっと消えた、上手に行ったんだろうって、そんなことを、考えている。

 舞台上には、ローディ※なのだろうか、何か物を置いたり、ケーブルを運んだり、そんな細かい仕事をする人達がいるが、これから何が始まるのか、熱気に負けて回らぬ頭で、それでも必死に考えているとまるで早回しのように見えた。

 また左の方から歓声が上がった、頭から黒い布を被るようにして入ってくるメンバー。照明は完全に落とされているが、なんとなく輪郭ぐらいなら分かる。暗いステージの上から響くのは、なにか硬いものが打ち付けられるような音だった。かち、かち、かち。それは時計の秒針が揺れる音にも似ていてどうにも不安を煽るようなそんな音で。圧倒的な緊張と人の群れとに縛られて、息を吐くことも、指一つ動かすことすらかなわない、そんな気がした。SEが止んだ。人の群れが、もう少しだけステージに近付きたいと衝撃に近い勢いで私の体を押す。闇がまたさらに濃度を増した気がした。

 緩やかに光の柱が現れる……。暗闇に発光するような輪郭をを持って、少年、と言うには少し成長しすぎた、しかしそうとしか言いたくない人影が立っている。セーラーカラーのシャツにハーフパンツはどこまでも目に痛い白で、銀色のアイラインと唇の仄かな桜色以外の肌も爪も髪も、真っ白だった。木目の浮いたベースを抱いているのが、不思議に見える。横で水乃さんがきゃあと小さな嬌声を上げる。場内からは思いのほか太い声で呼ばれる名前や、絶叫にも近い甲高い声が響いているが、彼の佇まいは揺らがない。圧倒的な存在感で彼はそこにいた。

 光がより強くなり、だんだんとステージがそのすべてを現す。玩具箱をぶちまけたような装飾、薄汚れた人形や、古い天体望遠鏡。さっきと変わらないものもあるのに、闇の中から現れたというだけで、すべてが鮮やかに、呼吸をして見えた。アンプの上に置かれた布張りの詩集がひょいと持ち上げられ、私はもう一人のメンバーの姿をやっと捉えることができた。がらくたの中に埋もれるようにしている。黒い学生服に同じ生地で出来た半ズボン。ひざまでを被うソックスに、目深に被った学帽。ワンストラップシューズはもちろん黒、ただぐるぐる巻かれたマフラーだけが、眩暈のするような夏の空色だった。木製の旧い椅子に腰掛けて、少しだけ足を上げ、また地面に打ち付ける。その革靴の硬い踵が舞台に当たると、あの秒針に似た音がした。

 真っ白の、三ツ葉が後ろを振り返ると、機材にその手をかけるのが少しだけ見えた。押しはもう大分辛くて、早く音をくれないかとそんなことを思う。動ければ少しは、この状況を改善できる。耳慣れた音楽が聞こえる。

 ああ、私はきっと、この一瞬のためだけに生きている。

 

 ライブ後は出待ち※をするというミカさんを放って先に新宿まで電車で行った。なんだか気がつけば六人ほどの大所帯になっている。水乃さんの知人がやっぱりスパングルを好きで見に来ていたらしい。いつぶり? なんてそんな話で盛り上がっている彼女達を見ると、バンギャはいつまでたってもバンギャなのだなあなんてそんなことを思った。

「三ツ葉びっくりだよ、真っしろしろだよ!」

「ねえ、あれはマジかよ、と思った」

「ずっと黒髪で通すのかと思ってましたよー」

 年齢や、住んでいる場所も特に関係なく、年下から一回りほど違う人まで皆で乾杯をして、楽しい、楽しい宴会状態。携帯電話に着信があったので、見てみると月子から電話で、皆に背を向けて電話をかけ直す。軽やかな電子音が数秒、まるでそれは永遠にも似た長さの様に感じられた。何処かで砂が流れるような、微かな音が混じっている。

「ああ、真知?」

 いつもの月子の声に、少しだけ安心する。騒がしいなかで、呼吸を巧くする方法を考える。

「着信あったから」

「うん、今日私ね、彼氏のうちに泊まっから。朝まで呑んでるんでしょ」

「ほいほい、了解。じゃ、明日」

「ライブ後に会おうねー。またメール頂戴」

「ばいばい」

 プッ、と頼りない音をたてて電話が切れる。私は携帯を畳んでポケットに突っ込む。

「真知ちゃん、だれ、彼氏ー?」

「ええっ、彼氏居るんですか真知さん!」

 さっき名前を聞いたばかりの、サボと言った。確か。きっと本名ではないんだろうけど。私より年下らしいのに妙にませたミホマツを着込んだ王子系※の女の子が黒いおかっぱ、と言うにはサイドだけが長いなんとも言い難い頭をさわさわ揺らしながら訊いてくる。

「違いますよ。泊まらしてくれてる子」

「なんだ、つまんねえ」

 横を向く水乃さんを見て、ミカさんは笑ってる。二人とももう随分酔っぱらっているみたいで、特にミカさんはさっきからけらけら笑い続けている。何時間も飲み屋に居続けると、一つの机を囲んでいても、小さなグループが幾つもできているようで、私はそのどれにも入ることが出来ず、宙ぶらりんでぼんやりとして、居た。

 話を聞いているだけでもそれなりに楽しいし、私は何にも特に思うことがなかったから別によかった、先程話していた、メンバーの髪の色やメイクが変わったね、なんてそんな話にも、綺麗だと思った、以上の感想なんか出てこなくて。

「泊まらしてくれてる子は、バンギャじゃないの?」

 ぼんやりしている私に気を使ったのか、水乃さんが首を傾げるようにして訊いてくる。

「バンギャですよ、コテオサ好きですけど」

「どのへん?」

「エンデとか」

 ああ、と納得するような顔をして、ふうん、と言った。エンデ、実は一寸好きっと訊いても居ないのに楽しそうに横でサボが言う。ミカさんはなれた様子でそうだねと言って。でも、趣味は違いそうだよね、何で仲良しなの? と、続く。

「中学の同級なんですよ」

「幼なじみなんだ」

「そんなもんですね」

 月子のと付き合いはもう七年を越える。中学校の同級生だったころから知っていて、学校ではろくろく話さなかったが、塾がたまたま同じ所に行くことになって、何となく気があった。小さな塾で、同い年の女の子が私達二人だけしか居なかったからかも知れない。今でも偶に思い出す、雪も降らない大阪の冬を、コンクリートで固められた教室へ向かう細い階段を。支度の遅い私を置いて、いつでも早めに月子は階段を下りた。固い足音がやけに明瞭に響いて、置いて行かれるかもと不安になる私は、転げ落ちそうな勢いで階段を下りる。真っ白な蝶がひらひら、ひらひらと頬を撫でていく。あの幻覚だ、と思う間もなく、最後の一段を飛び降りて、横を見ると月子が居る。口から白い息を、届かないだろうにピンク色の厚い手袋に覆われた手に吐き出している。これが蝶かと私は思う。

「遅かったね」

 イヤフォンを外しながら、彼女は笑う、耳慣れた音楽が聞こえる。

 知人のお姉さんが音楽が好きらしく、月子もその影響かいろんなバンドの曲をテープにダビングしては、ウォークマンでしょっちゅう聴いていた。

「……ちゃん? 真知ちゃん」

「あ、すみませんぼんやりしてた」

「酔った? 大丈夫?」

 大丈夫です、ちょっと寝ますね。と言って、机の上に伏せる。サボが楽しそうにけらけらと笑う声が聞こえてくる。いいな、女の子は、そんな様でも可愛いのだから。目の前にあるグラスは、半ば残った透き通る緑に、氷が溶けてまだら模様。昔こんな絵を見た。緑の酒と虚ろな女。当てはめて少しおかしくなる、さっきまで私を心配していた水乃さんは、もう横の女の子と楽しそうな笑顔。私はそっと目を閉じる。目さえ閉じれば、何もかも消えるから。

 

 どうしようか、と月子が言う。また夢だ、とそんな実感だけがある。フローリングで、小さな窓だけのある月子の部屋。彼女の実家、アパートの一室は底冷えする。目の前には一メートルくらいに積まれたCDがしかも三山。知り合いのお姉さんが就職するから、CDをどっさり置いていったと、そんな電話が掛かってきて。そのころには私と月子の趣味は既に少し違っていたから、お互い要るCDだけを分け合おうという話になった。

「プラは、真知?」

「うん、コレどうしようか」

「ああラピュータ※かあ」

「ちょっと聴きたいな」

「じゃあダビるよ」

「了解」

 大量のCDを分け合っていると、なんだか変な気分になる。私はそのお姉さんのことを何も知らない。それなのに、彼女の降り積もった時間を、分け合って。

「あ、」

 月子が、うっかり積まれたCDを崩す。透き通るケースと虹色の盤と、黒ベースの歌詞カードが散らかって、光が眩しい。無作為に、炸裂した、音が。

 

「一人二千円」

「はい」

 結局飲み屋が閉まる朝の五時まで眠り続けてしまった。変な体勢で机に伏していた物だからライブの疲れも相まって首から腰まで妙に痛い。今日もライブなのに大丈夫なのかなあ、とそんなことを思った。ミカさんがお金を徴収して回っているので、まだ怠い頭を抱えて素直に渡す。

「これからどうするの」

「漫喫行って、寝ます」

 朝の新宿は薄青く発光している。空気はゆっくりと沈殿してこごっている。動作は緩慢になり、揺れている。世界が、早朝が、滲んでいる。

 私はとりあえず漫画喫茶に行き、リクライニングの座席を取り、寝た。キャリーの中には着替えと化粧道具と、いくつかの細かいものたち。メイクを拭い、予約をしたシャワーの時間まで足を伸ばす。小さく区切られた狭い空間で、安堵してしまっている自分が居る。私を無気力だと、月子はよく言う。確かにそうかも知れない。月子なら、あんな席でももっと楽しく、鮮やかに居れただろうから。

 漫画喫茶と普通の喫茶店で半日ほどをだらっと過ごして私はまたライブハウスの前にいた。芝浦の、随分歩いてさみしいところ。倉庫のような建物がキラキラと装飾されてぽつんとある。暇なので高速道路の高架をくぐって、一寸した公園のような所に出る。基本的にライブ前は一人だ。また水乃さんやミカさんと会う約束はしたけれど、待ち合わせ場所なんかを確実に決めたわけではなかったし、公園にはもう既に黒い服を着た少女達が群れていた。ナオトやメタモや、ゴークやアウアア※。みんな凝らした服を着て何処からお金を稼ぐのだろう。不思議だ、本当に不思議だ。私のバイト代なんか、大概バンドで吹っ飛んでる。CD買ってライブ行って雑誌買ってもうアウトだ。

 海が見える。笑いが込み上げる。ここは何処だ、磯の匂いも薄れた都会の灰色。どうしてここにいる、馬鹿になるためか。夏の日はなかなか落ちない、もういい時間だというのに周囲は未だ、仄かに明るい。

 もう多分気は狂っているんだ、バンギャだから。

 白い鳥が飛んでいて綺麗だった。いつかの幻覚みたいで綺麗だった。ベンチに逆向きに座って、膝だけで立ってみる。朽ちる寸前のコンテナが、そこかしこで赤錆色。

「真知ちゃん」

 煙草の匂いがした。

「あぶないよ」

「うん」

 振り向いた、風がごっと吹いた。髪の毛が揺れてグロスにまみれた唇に張り付いた。肘が伸びて、新しい関節が生まれたような気分になった。じき開場だよ、と水乃さんが言った。私は頷いて騒がしい所へ帰った。ミカさんが今日は私服で相変わらずにこにことしている。サボもいる、今日はh.アナーキー※。昨日とは大分雰囲気が違う。今日もモモトセが出るのだ。最前に入り込む算段も熱を帯びてきているころで、私にはなぜか右側の端っこが割り振られていた。意味も分からず、頷いた。

 

 ライブハウスは広く、何もかもが美しく調っていた。新しいのよ、って自分の持ち物を自慢するみたいに誰かが言った。私は曖昧に頷いて、小さな段差の端にキュウとなって座ってみた。回りにどんどんみんなが鞄を置いて、ホテルのクロークの内側ってこんな感じかもって思った。私達はまるで全ての地平をクロークにするみたいに移動してる。どこまでもどこまでも連続する鞄の列。コムサ※のキャリー、ナイトメア※のキャリー、ミホマツのキャリー。ジャンル違いのバンドが多い対バンで、客層も普段のライブより少し若いような気がした。切り取られて、片面の毛羽立ったチケットを見ていると、あまりの意味不明に目眩がする。

「キー様※は一体何がしたいんでしょうかねー」

「知らないよー」

 水乃さんも流石に疲れて居るみたいで、口数が明らかに少ない。周囲が黒くてもけもけしているのが多すぎるせいで、スミレコ連中は何となく形見狭そうにぽつぽつと散っている。ライブハウスのどこかにいるはずの月子を探せどよく解らなかった、既に薄暗いそこは微かな、曖昧な人の声と、何処か悲しいようなSEだけが満たしている。

 壁を背に膝を抱えるとなんだか妙な安堵がある。目を閉じてうつらうつら、あんなに眠っても眠り足りないのか、背骨に疲労が張り付いているのか。

 月子、どこ? 月子、どこ? メールを送れど返事無し。

 幕が開いた。私とさして年の変わらないくらいの子がボーカルだった。きらきらしていた。太陽の光の様な金髪に蛍光色のエクステをたくさんたくさん着けて、口を開けて何か歌って、煽って。みんな一緒に見える。私は悪いけれど、この手のバンドはよく解らない。バンドがはけてから水乃さんが横でずっとさっきの煽りの真似をしていて、申し訳ないけど凄く似てて面白い。

「前良いですか後ろ良いですか真ん中良いですかー。頭振って下さい手上げて下さい、行きますよ良いですか、ヴォーイ!」

 小声で、横の私に聞こえるか聞こえないかくらいの声でするのがまた面白くってたまらない。くつくつ笑っていると、次に出てきたバンドがまた同じ調子で更に笑えてしまう。そんなことをしているといつの間にか演奏が終わっていて、幕が下りていた。周りの人たちがゆっくりと動き出す私もつられて立ち上がる。人をかきわけ、かきわけ。すいませんスパングルみたいんです、と小声で免罪符のように呟きながら。銀の幕まで泳ぐ。一体誰が順序なんて教えてくれるのか、私は知らない。

  必死にたどり着く、ここには柵がないので手を伸ばすと幕に触れる、駄目だろうなと思いながらも裾からのぞけないかと首を傾げる。

 もはや見慣れた黒髪のローディが裾から何か抱えて出てきた。ぱん、と広げると銀色の薄い布で、仄かな照明に照らされて月のように光る。ステージの端から端まで、すっと張って。マイクスタンドに同じ布をくくりつけた。スパングルだ、と解る。先日のような凝ったセットでなくても、彼等は彼等の方法で世界を変える。いつの間にかSEは消えていて、よく劇場なんかで聴くような開演のブザーが鳴り響く。幕がさっと開き、綺麗な人が立っている。斜め下から睨め付ける、真っ白なその姿。私の手が、届きそうで届かない。遠い、遠いよ。

 でもきっと届かない方が良いんだ。

 

 ライブ中は何時も何も考えない。私の心の中に溜まった妄想の滓や、澱のような感情もその間は静かにして置いてくれるので安心だ。ただ音があって、綺麗な人たちが居て。私はぼんやりと口を開けてそれに圧倒されていればいい。爆発するような打ち込みや、消えそうなバイオリンの音や歌声。跳ねるみたいな余り巧くないベース。そんなものに見入っていればい。一瞬だけだから逆に安心してそれを好きでいられる。永遠に続かないから嘘で良いんだって、そんなことを思ってる。

 いつものように歌い終わり、曲の余韻も消えないうちにメンバー全員ぺこりとお辞儀をして帰る。幕がすとんと落ちてみんなばらばらの方向へ行く。会場が選んだのだろうそぐわないSEが流れ出す。どっかの洋楽、私の知らないやつ。

 定位置になっていた隅っこに帰ってメールをする。もう何通目か解らないくらいなのに何の返事もこなくていらいらしてしまう。まあまだ、月子の好きなバンドは出ていないので、鞄に携帯を入れっぱなしでふらふらしているのかな、なんて思ってメールを送るのを止めた。いざとなれば駅で落ち合えばいい。

 ミカさんがお腹が空いたと言い出したので、水乃さんと一緒にライブハウスを抜け出して目の前のウエンディーズに避難。再入場用のスタンプ手のひらに押して貰って、ぽん。赤い花が咲いた。

「モモトセは九時過ぎだって」

「ああ、まだ大分ありますねえ」

 開いた携帯の、瞬くデジタル数字は7:32。体温のような組み合わせに笑う。長丁場だね、うん。ご苦労様。うん。

「エンデ解ります?」

「聞いて無いなあ、もうちょい早い気が」

「あ、じゃあ大丈夫ですね」

「どしたん」

「ツレが居るんです」

 とりあえず笑っておく。湯気を立てるチリスープの外見がグロテスク。

 そのままどうでも良い会話をつづける、ミカさんは行ってしまった。ぼんやりしてると帰ってくる。時間が急加速されて息が詰まりそう。大通り沿いのガラス窓車だけが流れるよ。黒い黒いのはバンギャの服、髪、わだかまっている夜。こめかみが痛い、あの幻覚が復活しそう。

「顔色悪いよ」

「うん……」

「もう、ライブハウスに戻らない方が良いと思う、スパングル終わったし」

「うん……」

 水乃さん、どうして私にそんなに気を使ってくれるの? 月子ですら今この場にいないのに、月子、月子に会いたい。

「月子って名前、良いと思わない?」

 これは中学校の図書館での話。何となく思い出しただけなのに、空気を伴ってありありと、口の中に溜まった唾の味さえ蘇る。その台詞をきっかけに。

「なんで」

 月子の読んでる本は綺麗。小豆色の表紙に蛇が絡んだ分厚い本、字の色も同じ。そして緑も混ざっている。そんな本がここにあるなんて知らなかった見たこともなかった。月子も綺麗、放課後の光に照らされて影絵みたい。夏休み前で早上がりの授業、塾まで暇で解放されてる図書室にいた。白いブラウスに透けて、腕が、更に白く逆光に沈んでる。象牙みたい。

「お姫様の名前なの、月の子」

「へえ」

 私は自分の返事が何の感情もないことに落胆した。それは綺麗だねも、似合うねも消えてしまってただの全てがどうでも良いようなプシュウと気の抜けた返事だった。金属の、硬質の音がどこかから聞こえた、それと歓声。真裏の運動場で野球部が練習している。なんだかそれは遠く、リアリティの欠片もなかった。

 ミカさんは帰ってくるとすぐ、予定があると言って行ってしまった。本当はこれからのスパングルの名古屋、大阪でのライブも行くつもりだったらしいのだが、バイトの都合でギリギリで駄目になっちゃってと笑っていた。水乃さんは相変わらずの笑顔のまま、ムーンライトながら※の指定席券のキャンセルってどうやるんだっけ、と呟いていた。じゃあ私はつれを駅で拾わなきゃいけないんで、月子の顔を思い浮かべながら言うと、ではまたね、名古屋で、と水乃さんは元気良く手を振りながら改札の奥に消えていった。

 月子にさっきからメールを送っているのにちっとも帰ってこない。何処か圏外のところにでも居るのかと駅を出て少し歩いてみることにする。土地勘がないのであんまり離れないようにしようと思って居たが、いつの間にかよく解らない通りに出てしまった。大通りではあるし車もあるから、何とか駅まで帰ろうとまた歩き出したとき、視界の隅にちらりと白い車が走った。ああ、よくバンドが機材車に使っている車だなあ、確かハイエースっていうんだっけ、そんなことを考えながら見ていると道を折れこちらに向かってくる。多分あれが来た方がライブハウスだから、この道を真っ直ぐ行くと駅なのかなと思いながらも車は私の目前を通って行った。一瞬見えた車中の顔に見覚えがあった。スッピンまで格好いいーとはしゃぎながら月子が私に見せたエンデ麺の写メだった。あ、なんで居ないのよ、月子。惜しいなあと思いながら、少し呆気にとられて見上げる私の目に、次に映ったのは見慣れた細い腕だった。後部座席に屈むようにして居るのだろうか、顔や体は見えないが、細い腕と、ランダムに小さな鋲が取り付けられた変わったリストバンドは、月子のだった。ひらひらっと振られて、また見えなくなる。

 要はお持ち帰りされた、と言うことだろう。打ち上げかホテルかは知らないが。月子は確かに平均以上に可愛いが、食われたいとか言うような子じゃなかったのでとりあえずびっくりした後、なんだかよく解らないが絶望的な気分になった。

 なんという偶然だろう。なんて良くない偶然だろう。駅で待ちぼうけて置けば良かった。なんでふらふら歩いちゃったんだろう。

 耳元で音楽が鳴っていた。イヤフォン本体共々ポケットの中だからそんなはず無かった。空を見上げた、真っ黒だった。都会だから紺色であるべきなのに真っ黒だった。私達がいつも知っている空は実は丸くカーヴした硝子球で、それを取り除いてしまってその奥の虚無がよく見えるようだと思った。今まで見た何よりも黒かった、コテの衣装より口紅より、夢の中の私が巻いていたリボンより、熱い日差しに焼き付けられた影より黒かった。切り絵のように浮かび上がるビルがどんどん低くなっていく。溶けているのだと気が付いた。

 ああ、懐かしい幻覚だ。そう思った。

 日差しにやられたチョコレートのように、溶けたビルが両足に絡んで歩きづらい。遠くの方に発光する建物があるのでとりあえず目指す。なんと言うこともなく駅に着いてしまって愕然とする。一番安い切符を買って、とりあえず、とりあえずムーンライトながらが来るホームに行けば、月子が私を待っているかも知れない。券売機や改札もチョコレート色でどろどろしていて、ボタンを探すのも一苦労だった。改札の方は、とりあえず普通の顔をして切符を突っ込んだら吸い込まれたので安心する。

 気をつけなければいけないのは、こんなのを見ているのは私ひとりだということだ。それは私が中学までの十数年間に学んだ数少ない生きていくのに大事なことだった。そもそも、同じ物を目の前に置かれても、角度で色合いも形も全部違って見えるのが人間なのだから。これはどうも私の脳味噌の中だけで起こっていることなのだ。それとも、みんなこれを見ていて、みんな自分だけが特別だと思って、黙っているだけなんだろうか。判らない、けれど、今私の目の前で、線路はネオン管でぴかぴか輝いて、遠くのビルは茶色くぐんにゃり歪んで、窓の一つ一つからサーチライトの暴れる電車がやってくる。品川駅へ行かなくては、きっと、きっと月子が待っている、今は何時だ、判らなくなって携帯電話を見る。待ち受け画面の白黒赤のイラストが、ぴかぴか、ぴかぴか、回転している気がしてしょうがない。赤い、真円の前に一匹の黒猫の影。時計はデジタル、角張った数字の間の二つの点が、ついたり、消えたりするのはいつものことなのだけど。猫の背の曲線が美しい、ベジェだね、と月子の台詞を思いだし、何故か泣きそうになる。

 乗り込む電車の中は奇妙に明るくて、蛍光灯の明かりは何処までも清潔だった。無菌室にも似た白い車内に沢山の人、この人達は私のように足下あやふやではなく、目線定まらない訳ではないのが妬ましい。私のように、大事にしている音楽はあるのか、一人一人に訊きたくなる。それとも音楽がないから、ちゃんと立っていられるのだろうか。でも私は、音楽を捨てるわけにはいかないのだ。私が私であるために、音楽が必要だから。

 電車ががたんと跳ねるたびに、バランスを欠いて倒れそうになるのを必死でこらえる。体調が悪そうに見えたのだろうか、立っていた年輩の婦人が心配そうに私の方を向き、座席に座る男に何か、代わって上げなさいとかそういうことだろう、多分。言おうと口を開きかけた、おばさんの口は空いた端から耳の裏側までゆるゆると切れ上がり、まくれ上がる。露出した中身は何故かよく熟れた柘榴のようで、小さな粒がぽろぽろ零れてそこらで潰れた。甘い匂いがする。私は大丈夫ですと小声で呟き目を伏せた。すぐですから、と言って笑う。正直、もうすぐ品川だった。

 おばさんは少し残念そうにしていたが、電車は生憎品川へ到着。目礼一つで足早に降りる。なんだか人の好意を素直に受け取れない。それが私自身のせいなのか、それとも柘榴に親切にされたせいなのかは判別つきかねる。

 ホームを一度降りて、ながらの来るホームまで歩かなくてはならないのが少し面倒くさい。もちろん、月子の姿は何処にもなかった。

 裏切られたとは思わない。女の友情は男には負けるのよ、なんてそんなことも思わない。ただ、どうしようと思った。十八切符は持っているけど、ながらの指定席券がない。正確には初めから無かったのだけれど、月子が居たから、二人で地べたに座って、話していようと思ったのだ。夜が明けるまで、スーツケースの上に座って、下らないバンドの話なんかを小声でしようと思っていたのだ。そこらで安酒でも買って、電車と月の光に揺られながら、どこまでもいけるねえ、なんて、そんなことを思っていたのに。

 どうすればいいんだろう。

 気が抜けてしまったようで、もう動く力もない。また線路がぐにゃり、と歪んでジェットコースターみたい。ああこのまま、自分の妄想に殺されたいのに。出来ないんだ、どうせ、目が覚めてしまうから。

「あれ、真知ちゃんだよね? どうしたの?」

 知った顔だった。水乃さん、と言葉にする前に涙がこぼれた。線路はもう落ち着いて、鉄の光り方で薄く、東京の夜に浮かびあがっていた。

 目が、醒めてしまったようだった。

 結局、水乃さんは指定席券を取り消し損ねていた。私はそのおこぼれにあずかる形で、予想もしていなかった座席に座ることが出来た。泣きやんではいたものの嗚咽を引きずる私を、とりあえずと言いながら窓辺に座らせ、小さな水の入ったペットボトルを一つ、ぽんと私の膝の上に置いた。水分を出したんだから、その分とらないとね、と判ったような判らないこと言いながら自分は青と銀の缶チューハイのプルトップを引く。

「二十五にもなるとね、どうもライブハウスでジュースとか言う気分じゃないのよね」

 確かにそれは見覚えのあるペットボトルで、ドリンクチケットと引き替えで貰ってきた物らしかった。もう大分温くなっていたが、逆にそれが気持ちよかった。体温に近い液体が咽を通るとなんだか安心した。

「真知ちゃん、名古屋判る?」

「いえ、あんまり、エル※周りなら判りますが」

「私もあんまり分かんないのよねー。三回行ったことが在るんだけどさ、ミュージックファームとボトム※? だからエルもわかんないのよ」

 何で泣いていたの? とか訊かないところ、さすがに大人だと思った。睫が黒くふさふさしていて、電車の中では化粧落とせないだろうになんてそんなことを思ってから、それは私も一緒か、なんて情けないようなことを考える。

 電車の振動に会わせて揺れるペットボトルの水は純粋できれい。私なんかのからだに入っていくのがもったいない。

「でも真知ちゃんが居て良かった」

切符が無駄にならないで助かったよ、と笑う顔がきれい。本当にうつくしい人だと思った、優しいそれは私が欲しかったことばだから、嘘でもそう思っておこうと思った。居て良かったって、嬉しいことばだった。

 さあ、酒も飲んだし寝るかあ! とおよそ女のひとらしくないことを小声で呟き、ね、とこっちを向いてにっこり笑う。そうですね、と言って笑おうとしたけれどどうにも口の片側だけ上げるのが精一杯で、きっとぎこちない、嫌な顔なんだろうなと思っていたら、彼女の柔らかな指が私の片頬を軽く摘んだ。

「痛いですけど」

「寝ちゃいな、真知ちゃん。明日は来るし、しかもライブだよ」

「わかりました」

 それでもやっぱり眠ることは難しかった。ながらにはバスのような消灯がないのでよけいに辛かった。少し眠って目を開き、見る外はいつでも疎らに灯りがついていて、やけに白々と輝いている車内からは、まるでそれは星の少ない外宇宙を飛んでいるように感じられた。あの光の一つ一つが家や車の灯りなんだろうか。あの一つ一つの中に、人の生活が有るんだろうか、そんなことを考えていると、また目の奥がずきんとして、良く晴れた黒い夜空にある月が、書き割りのように見えてくる。まずい、また夢と現実との境を見失う。

 本当に、この妄想癖、と言って良いのか自分にもよく解らないのだが、まあそんな物には呆れる。一応、これが有り得ないことで、こんなものが見えるなんて多分気が狂っているんだろうと言うことは解るのだが、違う違う違う消えろと頭の中で思ったことはちゃんと無くなるし、特にだれも書き割りの月にびっくりしたり、溢れだした水に溺れたり、崩れたビルに埋まったりしないので放って置いている。全ては私に見えるだけで、私が黙っていればよいことなのだ。

 電車の中で、私は短い眠りを数回こなした。眠っている間は夢も見ない、起きている間も妄想の出ない、灰色の眠りだった。単発的な死というものがあるなら、それだろうという眠りだった。肺も心臓も脳も、全てがストップして、またゆっくり蘇生するまでの時間だった。

 目を開けてぼーっとしていると名古屋に着いた。水乃さんは驚くべき事に名古屋に着く丁度十分前に目を覚まし、伸びをして、二三回欠伸をして、コムサの私と色違いの水色と黄緑のストライプのカートの持ち手を引っ張り上げ、サンダルをきちんとはき直し、計ったように座席から跳ね起きた。信じられないほど綺麗な一連の動作に比べ、わたしはなんだかのそのそした動きしか出来なくて、呆れられてないかと思わず水乃さんの顔色を伺ったが、彼女はなんにも気にしてないよ、という顔をしてあっさりとしたものだった。

 名古屋駅を出てからも彼女はおねえさんらしさを遺憾なく発揮し、シャワー浴びたいよね? と呟いた後、返事を待たず素晴らしいスピードで漫画喫茶に私を引きずっていった。実際は手も繋いでなかったが、なんとなく引きずると言った雰囲気があった。彼女自身に、強い引力が有るような錯覚を覚えた。シャワーの二人分の予約を済ませ、二人用の個室、と言っても狭い中に無理矢理二人掛けには一寸狭いくらいのソファーの入ったそんなしきりの中で。

「水乃さんって、お姉さんですか?」

「ううん。四人姉妹の三人目」

 まだ少し濡れた髪にムースを馴染ませながら水乃さんは真剣な顔。

「なんだか納得しました、普通にしていると誰も何もしてくれない系ですか」

「なんか真知ちゃんって言葉に刺があるよね」

 笑いながら言うので、なんだか馬鹿にされた気分にもなったが、その後に続いたのはまさにそのとーり、鋭いねえー。と軽い肯定の言葉で、元々無かった怒る気をさらに殺がれて笑ってしまう。狭い漫画喫茶の二人掛けの椅子、目前のパソコンがブルーに発光していて、なんだか安っぽい魚の泳ぐスクリーンセイバーをもう何分も続けている。正直二人分のメイク道具を置くには邪魔で、外して下に置きたい気分になる。

「上、みーんな結婚して、下も彼氏いるから親もぶつぶつ言ってるんだけどねえ」

 バンギャル復帰しちゃったしね、冗談めかして言うが余り目が笑っていないことに気が付いて黙る。スパングル、良いよねー。と続く言葉にただただ頷く。

 かちゃん、という軽い音がしたので何かと思うと水乃さんの口紅が床の端に転がっていた。あ、御免拾って、と伸ばす手の先は器用に市松模様に塗り分けられている。近づいた髪からは、石鹸じみたいい匂いがした。窮屈に体を曲げてやっとその小さな人形のような可愛い筒を拾い上げる。

「これ、色も良いしいいですねえ。アナスイ?」

「うん、限定物ー。アナスイ好きなんだけどさあ、こんな色未だに買っちゃうところバンギャ抜けきれなくて笑っちゃうねえ」

 言いながら見せる小さな黒いケースは半分ほど使われたアイカラーで、目も覚めるような朱だった。目尻にすっと引くと彼女によく似合った。

「えー、でもアナスイはアリだと思いますよ。似合うし」

「そう? 嬉しいな」

  笑った水乃さんはちらりと時計を見た。細い革のベルトの着いた、瀟洒な、しかし媚びる所のないそれは彼女のようだった。

「寝といた方が良いでしょう。結局電車の中じゃ寝てないんだから」

 有無も言わせぬ迫力がある。

 そしてまた良い時刻にたたき起こされ地下鉄に押し込められライブハウスの前まで引きずられる。お腹空いてる? と訊かれ、たいしてと答えると、私は空いてる真知ちゃんがそんなに細いのはそれは食べないせいだと怒られる。結局ケンタッキーに拉致されていつのまにか目の前にプラスチック製の四角いカゴを置かれる。

「おごりだから、食べ」

 そんな事を言われてもと思ったけれど、水乃さんはその鳥をしかもサンドイッチにして素早く食べてしまっている。

「ライブ見た後どうすんの」

「朝まで漫喫にいて、大阪に十八で行こうかなあと」

「ふーん、車のってく? 古い友達のひっかけたんだけど」

「いいんですか?」

「いいのいいの」

 大阪までビジュアル系まみれの車の旅だー。と呟きながら一生懸命に鳥を始末している、その指の細さや、爪の黒色が油に濡れて更に嫌な光り方をしているのが視界の隅で何となく気に障る。視線をずらすとそれなりに大通りで、それなのに車のなんだか少ないのが、やけに不思議に思えた。都会のはずで、大きなビルも沢山あるのに、どうしてか何もかもかこじんまりして可愛く見えるのが地元みたいで懐かしい。そんなことを言うと水乃さんは余り興味なさそうにふうんってだけ呟いた。

「うち、田舎だったからなあ。いまはなんとか東京で働いてるけど」

「なにやってらっしゃるんですか?」

「いわゆる派遣社員だね。あと仕送り」

 うちは仕送りして貰えるほどお金無いんですよ、と言うと一寸顔を曇らせて、そんなのうちだってあんまりないんだけどね。と言った。東京の大学を出てから、就職もできなくて何となく家に帰りそびれそのままになっているという。訊けば悪くもないそれなりの、私でさえ何となく聞き覚えのある大学の名前を言った。

「うっそ、頭良いんですね水乃さん」

「そうでもないよー。それに就職できてないんだから」

「厳しいですか、やっぱり」

「うん、厳しい。女の子が文系出てもねえ」

 真知ちゃんは頑張ってね、とちょっと間をおいて言った。

 そのまま些細な話を続け時間を潰し、ライブハウスまで歩くと東京でも見た数人の顔があった。ご苦労だなあと考えてから自分だってと思い当たって苦笑する。その中の一人、多分私より年下の小柄な子がなんだか沈んだ顔をして友達らしい連れの子に慰められているのに目が行った。サボまで真剣な顔をして話を聞いてあげている。漏れ聞こえる会話を何となく追ってみると、彼女の好きだったバンドが不意に解散を発表し、こことあと何処か三カ所ほどを経てお終いになるのだとそんなような内容だった。水乃さんもその話の中にいつのまにか加わって、頷いたり、今にも泣き出しそうな子のあたまをぽんぽんと撫でたりしている。

「大変ですね」

 こちらをふと振り向いた水乃さんに小声で言うと、それが気に障ったのか今まで慰めるようなふうだった子の方がキッとこちらを睨み、そんな言いかたってないんじゃないですか知りもしないくせに、と見事な一息で言った。私はそれにどう答えることもできなかった。サボはもうそしらぬふりで、遠くの方を見ていた。

 入場が始まって、ライブを見ていてもその言葉は私の中に白々と小骨のように刺さっていた。

「気にしない方が良いですよ、どーしようもないんだから」

 サボが相変わらずおかっぱをふらふら揺らしながら言う。

「気楽だねー」

「考え込むのは止めたんですよ、体に悪いから」

 あっさりとある意味淡泊に、彼女は笑う。

「そうだね、体に悪いね」

 何時も音楽が聞こえれば私は馬鹿になれるはずなのに、今日はどうしてか手足が痺れたように重かった。どうすることもできないことをどうすることもできないと言うだけで、人が一人傷ついたのだと、解るのだけれどやっぱりそれはどうしようもないことだった。

 スパングルはいつもの通り綺麗で見事だった。エルは沢山の照明が上から下ではなく真っ直ぐ見えるように付いているので、それに照らされて焼け付くように浮き上がる彼等の姿は本当に美しかった。今日は途中で小屋を抜けるようなことはせず、最後までライブを見続けてみた。解散すると言っていたバンドも見た、ボーカルがとても歌が上手いのだけは解った。ファンもみんな楽しそうにきびきびとフリ※をやっている。立てた髪をひっつかんで地面に叩き付けたいな、なんてそんな本気でもないことを考えて居ると、あの妄想の気配がちらちらと蘇り、々と突き上げた少女達の腕の一本一本が、ぱちんと爆ぜて宙に飛んだ。赤い血が霧のように空気に混ざったところに、強い照明が来て虹が見える。本当ではないと解っているのに鼻を突く血の匂いはやけに現実じみていて目を閉じた。

 ライブハウスを出た後、水乃さんはやけに優しい声で大丈夫? と言った。その言い方がなんだか年長者じみていて笑ってしまう。バンギャで、追っかけで、年の差なんて笑いのネタにしかなりそうもない場面だというのに。少し遅れてライブハウスから出てきたロリータの女の人が笑いながら手を振っている、その後ろからサボがぴょこっと顔を出す。水乃さんも笑いながら手を振り返す。

「久しぶりー」

「久しぶりだね。こちらトーノさん、うちらを大阪まで載せていってくれる可哀相な人」

「高速代は折半ね」

「こちら真知ちゃん。先輩スミレコさんです」

「ほー。宜しく、遠野です」

 トーノが遠野だと言うことに気付くのに一寸時間が掛かった。水乃さんの発音が妙だったせいもあるが、彼女の雰囲気に余りその固い漢字は合わないのだった。ちょっとぽっちゃりとした色白の人で、白にパフスリーブとは言えきっちり着込んだロリータがよく似合っていた。柔らかい布で出来たヘッドドレスが、まるで子供の物のようで、栗色の髪にしっくりはまる。年齢はきっと二十代中盤辺りだと思うが、そんなことは気にならないほど可愛らしい雰囲気のある人だった。チークで染められた頬は上品な薔薇色で、抱き締めたらきっと花の匂いがすると、そんなことを思う。

「じゃ、私とサボ、出待ちして行くから。先行っといて」

「場所わからんよ」

「地図書くわ」

 ライブハウスで渡されたチラシの裏にサインペンで書かれたおおざっぱな地図のせいで、着くまでにちょっと迷いそうになりながらも何とか先に居酒屋へ。食事をしているうちに二人がやってきて水乃さんは二度目の乾杯をするという。水乃さんはビール、私とサボはチューハイ。運転をする遠野さんだけはウーロン茶を呑んだ。

 あのライブハウスの前で私を睨み付けた子は居なかった、私達四人だけの静かな食事だった。サボはよく喋ったけれど、それでも東京ほどではなかった。

 私は水乃さんの顔を見られずにいた。気遣ったような顔で笑われるのが本当に嫌だった。

 車の中は少し寒く、予想したとおりに暗かった。

「トーノさん、冷房ききすぎー!」

 ドアを開けるなり水乃さんは言う。

「人の車に乗せて貰ってそれかーい」

 無視するように言いながら冷房のスイッチを切る遠野さんは優しい。でも確かに、ちょっとぽっちゃりめでロリータとはいえきっちり着込んでいる遠野さんと細くてキャミソールの水乃さんでは体感温度は違うだろうと思える。アナーキーのサボは準備のいいことにキャリーからカーディガンを引っぱり出している。B.P.N※の黒カーデだった。

「じゃあ体力無いお姉さんは後ろで寝るから。君、助手席」

 そう言って水乃さんはさっさと横になってしまう。ご丁寧に隅に置かれたタオルケットを勝手に引きずり出してまるまっている。私が遠野さんなら腹が立つと思うが、彼女の表情からはそんな感情の一切が読めない。ただh..フリル※のワンピースが逆光に浮くだけ。

「ごめんね」

 それでも似合うな、と思って見ているとふと口を開かれてどきっとする。何がですか、と言うと何故か笑われた。

「凄い今、訝しいって顔してたー。そんな顔久しぶりに見たー」

 あんまり今時言わない、それこそ久しぶりの表現を使われて、腹が立つというか面食らって黙っていると、このお姉さん色々引っ張り回すでしょう。迷惑被らなかった? と言われてそうか代わりに謝られたのかと合点が行った。何か音楽かけようか、と言われて、車に乗るのも久しぶりでぴんとこなくて黙っていると、後ろで水乃さんがフロッピー※聞きたい。フロッピーかーけーてーとうわごとのように言う。

「テクノは眠くなるので却下」

「あがた森魚※」

「眠くなるので以下略。それ以前にここにありません」

「神歌※ー!」

 サボのヴィジュアル系な叫びも、耳に着くからと言う理由と、やっぱりこの車には音源がないと言って却下される。

「じゃあなんか懐かしいかんじの奴」

「了解」

 遠野さんは白っぽいテープを取り出しデッキに突っ込んだ。テープなんて久しぶりに見ました、と言うと家族の車だから結構古いのね、と言う。親と同居じゃないんだけど、ま、こういうときには借りれるからいいよね、そんなことを喋っていると、後ろから水乃さんが、ま、オイラの専属アッシーってことですよ、なんて呟くように茶々を入れる、遠野さんはすかさず黙れと返す。そのやりとりがまるで芝居で笑ってしまう。

 テープの音楽になんだか聞き覚えがあるので考えているとシド※だよ、と遠野さん。

「懐かしい感じで?」

「昭和歌謡な感じで」

 カリガリにグルグル※に、メリー※もあるよ、と言って片隅に積まれた数本のテープを指す。あと、スパングルももちろんあるけど。

「昭和歌謡好きなんですか?」

「昭和歌謡風、が好きなのかもね」

 じゃあ次はメリーを、ドライブにもきっと似合うからメリーを、とサボは後部座席でぼそぼそ言っている。水乃さんが寝転がっているので座席じゃない隙間にキャリーを置いてその上に座っている。狭くない? と訊くと狭いとこ好きですから、と言う。

 遠野さんは自嘲気味に歌謡風で、テクノ風で、文学風で? と、笑う。そしてふと後ろを振り返り鞄取ってと叫ぶように言った。水乃さんはおっくうそうに体を起こし、黒い水玉のある小さな鞄を引き寄せる。取って、と言われそれを受け取る。

「眼鏡、やっぱりいるわ」

 丁度信号が赤だったので、彼女は鞄から眼鏡ケースを取り出した。艶のあるフレームは、ミカさんの物とはまた違った透き通った赤で、信号の光にちょっと似ていた。

「寝ても良いよ。三時間かちょっと位で付くから」

 高速代、折半ねー、と後ろの席に向かって彼女は言う。あからさまに嫌そうな声が返ってきたが、きこえナーイと言ってさらにアクセルを踏み込む。

「未成年からも取るんですかー」

「酒呑んでたくせに。自分で稼いでる人からは取ります」

「はーい」

 どうも水乃さんは本当に疲れていたらしく、すぐ軽い寝息が聞こえてきた。

「面白いでしょ、彼女。本能のままで」

「はい、凄く」

 頷くと彼女は笑う。もうずっとかわんないんだもんなあと言って笑う。

「きっとね、水乃は真知さんのことが好きなんだよ」

「あーあー、解る解る」

「えー、止めて下さいよ」

 バンギャにありがちななんか、寂しさを埋めるために同性愛者を装うみたいな、そういうのなんか最近多くないですか? 私は勘弁して下さいよ。そんなことをぽつぽつ言うと遠野さんは本当に楽しそうに笑ってそんな話だったらある意味よかったんだけどねえ、と答える。

「あのねえ、昔、もう六年くらい前になるのかなあ。とても水乃と仲良しだった子が居てね。一寸似てるんだよ。あなたは」

 遠野さんの先の口調はなんだか重く張り詰めていてまるで、死人の話をするようなそんな雰囲気。

「今はもうそのひとバンギャじゃないんですか?」

「今はびっくり一児の母さ」

 それを訊いてなんだか安心した。口先だけなら何とでも言えるけれどやっぱりバンギャには死にたいと言う子が多いのも事実で、リストカッターなんか正直珍しくもない。リスカと自殺願望は別と月子は力説していたけれど、私にはどっちもどっちで傷が残るそんなことなんか可愛い女の子がやることでは無いと思っている。

「なんかさあ、お母さんと娘でバンド好きとか凄い良いよねー」

 いつのまにか遠野さんの話は緩やかに移ろっていく。

「この間さ、開演待ちしてるときに隊員※さんの子と喋ってねえ。わっかいなーと思って年を訊いたら高校生って言われちゃって。お母さんとか心配しない? って訊いたらお母さんガーゴイラー※だって」

「渋いですねえ。あ、終わったねCD」

「……メリー」

「うるさいな。あ、ねえ真知ちゃんってスパングル聞き始めて何年くらい?」

「えーっと、三年くらいですかね」

「じゃあ、これ知らないかな? 大サービス、聴かせてあげよう」

 隅に置かれたテープの中から、綺麗な絵が描かれた一枚を取り出す。なんだか見覚えのある絵だ、と思うと仄かな波のようなノイズの後にゆっくりした打ち込みの曲が流れ出す。

「スパングルの一番最初のデモテ、菫の子」

 今より、もう少しだけ芝居がかった、前時代的な歌い方。知りもしないのに、懐かしいと思う、不思議な声。これ、歌詞ね、と渡されたのは柔らかな風合いの薄い薄い紙に濃紺でプリントされた綺麗な、まるで手紙のような一葉。

 

 グラスを置くなら静かに置いて下さい

 耳の奥に詰まった鉱石の響きが痛いのです。

 笑うのなら声を出さずに微笑んで下さい

 頭の中にいつまでも反響して辛いのです。

 食卓に飾るなら菫にして下さい

 原色の薔薇が私の目を灼くのです。

 

 誰でも良いのです、助けてくれれば。

 それが駄目ならみんな死んでしまえばいい。

 ぼくが死ぬのも良いですけれど

 菫の代わりに飾ってくれるなら。

 

 ぼくの血が皿を満たして

 ヴァイオレットにナフキンを染めたら素敵。

 ぼくは菫の子ですから。

 いきを吸うのも辛いのです。

 本当は菫の子ですから。

 人に触れるのも辛いのです。

 

 流れていく、高速の照明は三日前の夜と同じ物のはずなのに、私の隣にいる人も、世界も、何もかもが変わってしまった。仕方ないかも知れないけれど、私は月子の方が良かった。月子は私の半分だった。塾で、どんな音楽きくのって、その台詞を聞いたときから半分だった。切り離せば血が滴るほどの半分だった。だけど今は裂かれて無い。

 関係ない話をしながらも、そう一度思ってしまうと頭の中は月子のことばっかりで、今日の空に月が見えないのもやけに腹立たしい気分になって。どうしようもないって、本当に。

「水乃さんの友達って、そんなに似てるんですか」

「うん、そうだねえ。全体的な雰囲気とか……、そんなに派手じゃないところとか。ああ、あとなんかやる気無さそうなところとかね」

 月子のことばかり考えていたからか、空にはいつのまにか異様に大きな月があった。一瞬後にはそれは月子の巨大な首になってにやりと笑った。曲面沿いに顔がデフォルメされたように歪んでいるのが気持ち悪くて、なんで私の幻覚はこうも毎回気分が悪い物ばかりなのだろうかと思う。漂白されたように白い巨大な月子の顔が歪んでその口からぱらぱらと虫の死骸をこぼす。

「私にもね、大事な子が居たんですよ」

 カップリングの悲しい歌が終わった。私は何となく、月子のことを話し出していた。中学校の事、塾であったこと。未だに顔も知らないお姉さんのこと。何となくだけピアノが弾けること。初めてロリータの格好をしてくるくる回って見せたこと。下妻物語が流行るずっと前、高校の冬休みに一緒に校則違反のバイトをして貯めたお金で彼女はロリータ服を買った。メタモルフォーゼのセットアップ。私はB.P.Nでコウモリ襟のマントと半ズボン。今では滅多に穿けないけれど大事にとってはある。私は服に着られている感はあったけれど、最近では余りしないゴスロリだって月子は似合った。初めてのロリのくせに手抜きも妥協も一切無しで、必死に厚底のワンストラップシューズを探して穿いた。

 月子のことなら幾らでも話せる。一つ一つ必死に言葉を寄って話す私は馬鹿に見えるだろうか。遠野さんは何も言わずに黙って聞いてくれた。ありがたかった。一つでも冷静な言葉を刺されれば私の全ては空気が抜けてぷしゅうとへこんでしまうに違いなかったから。いつのまにかまた、あるはずのない月が歪みだして、また妄想だなんて自分の目や脳味噌もいい加減にしてくれればいいのにと思っていると頬に違和感がある。触れてみると涙だった。泣いている実感なんて何もないのに涙がこぼれるのがなんだかおかしくて堪らなかった。

「好きなんだねえ、その、月子さんが」

 長い長い、そしてとりとめのない話が終わった。私の声は途中から嗚咽混じりできっととても聞きにくかったと思うが、それでも遠野さんもサボも静かに話を聞いてくれた。

 話し終わったときにちょうどまたテープが自動でがちゃんと裏返って、懐かしい歌がもう一度流れ出す。今の空気とその歌が計ったように精巧に合わさるので、私はなんだか泣きそうになる。

 誰も何も言わなくなった。車だけが静かに何処までも走っていく。夜が重い、車の中の空気は酷く冷えていて、私はまるで冷たい水の中に沈められたように動けない。何処までも何処までも走って行けたらいいと思った。目前の道路はねじくれて跳ね上がる、高架はいつのまにか空の向こうへ。古いアニメの線路みたい、その先には何もなくって。真っ暗だ、真っ暗だよ。私の意識を、段々黒いつぶつぶが覆っていく。あ、貧血だ、とそう思うとなんだか目を開けているのも辛くなって、瞼を落とした。

「着いたよ」

 遠野さんが言うのでまだ重い瞼を無理矢理こじ開けると真っ暗だった。自分はまたどうしようもない妄想の中にいるのかと思ったがどうもそうでもないらしい。目が慣れてくるとまともな住宅街のまともなマンションの前に車が止まっているのだとちゃんと理解できた。彼女が人差し指を口の前に当てて静かにねのジェスチャーをするので私は黙って車を降りる。夏の夜の、植物のにおいを孕んだ温い空気に急に晒されて、目眩がする。ふと、このまま急にドアが閉まって何処だかもよく解らない町にしかも一人で残されたらどうしようと思ったけれど、そんなことはなかった。車からは続いてサボと水乃さんが降りてくる。水乃さんはまだ寝ぼけ眼だ。

「ちょっと駐車場遠いから、先上がっといて。サンマルゴ」

 何故かホテルのキーの様な赤い透明な棒の着いた鍵を渡されて、遠野さんはまた車に乗って行ってしまった。

「あがる?」

「うん」

疲れているのか流石にサボも怠そうで。私はさっきから、妄想とは違うもっと躯の軸がよじれたような感じを抱えて途方に暮れている。

 三階の隅っこの部屋は、どうにも生活感のない部屋だった。さっきから調子が悪いと思っていたら、やっぱり生理になっていた。なんだかあてどなくむかついた。世界中の調子悪いが勢い着いて降りかかってきたかと思うくらい気分が悪くなった。

「生理中は、男子が羨ましいと思うよね」

 真新しいナプキンの外袋を破りながら、遠野さんが言う。私はとりあえず床に敷かれっぱなしのマットの上を借りて眠ることばかり考えていた。

 

「いい天気だね。本当に日曜日の朝って感じ」

 水乃さんの脳天気な声で目が覚めた。何とかまた目を開くことが出来たと安堵する。ベランダに出るための大きめの窓からは朝日がハイテンションに射し込んできて、どうしようもなく途方に暮れた。

 夏休み中は曜日感覚さえ消え失せる。もく、きん、ど、にち、と言ってみて、もうそんなにライブを見続けたのか、と頭が煮えそうになる。

「我ながら無茶な生活してるわよねえ」

 水乃さんが呟くように言う。派遣とは言え仕事をしている彼女は、仕事帰りライブに行く生活を二日したあげく、そのまま電車と車を乗り継いでとうとう大阪まで来ていると言う話になる。流石に帰りは新幹線使うけどね、と笑う。

「いやあ、職場が都内でマジよかった。山手線とか通ってて超よかった」

「都会だよね、水乃さんとこは」

「そういえばサボって何の仕事してるんだっけ」

 女の子四人で、地べたに座ったままパンと牛乳の朝食。蜂蜜マーガリンと言葉だけが行ったり来たりするのんびりした食事だった。夏の温い空気が、網戸越しの風になって緩く赤と黄色の細かい水玉のあるカーテンを揺らしていた。

「ああ、言ってなかったですか。いわゆる水ですわー、ホステスっつーか。顔これですけど、盛り上げ系で結構人気」

「ええっ、そうなんだ。若いのに大変だねえ」

「そうでもないですよー。ただ将来の夢とか希望とか全然ないんで、お金くらい貯めようかなーと」

 話の内容は重そうなのに、話している本人達の口振りはあくまで軽く、なんだかバンギャは全部をネタにしようとするよなあとそんな特に関係なさそうなことを考えていた。その後のだらだらした会話の中で、遠野さんが実は公務員な事を知った。派遣とお水と公務員と大学生という、意味の分からない取り合わせが、なんだかとてもさわやかな朝に不釣り合いのように思えた。話はどんどんずれてきていて、サボの名前の由来なんて本気でどうでも良いことになっていた。

「サボってさあ、何でサボなの?」

「は?」

「そうだねえ」

「普通バンギャって難しい漢字じゃない? そういうペンネームっぽい名前。なんでサボはサボなの?」

 サボは吹き出してゲラゲラ笑いだした。だって水乃さん真顔なんだもんおかしいなと言ってずっと笑っている。本気で気になっていたから訊いたのに、と水乃さんは拗ねる。

「いやいやどうでも良い理由なのよ、あのね、私も中高生のころはアイタタでした。ハジュって名前をつけてたのね! 制覇のハに植物ほうのジュね。でね、サボテンって日本語だと覇王樹って言うらしくってね、それをたまたま当時通ってたバンドの麺に指摘されてね、打ち上げで! もう爆笑。それからずっと私はサボテンなの。いいんだ、小さいけど可愛い花も咲くしさ」

 

 食事の後、遠野さんが車を親の家まで返しに行かなければいけない、と言うので私とサボでとりあえず大阪まで出ることにした。駅まで車で送って貰って、二人と別れた。水乃さんはどうやら遠野さんのお母さんを知っているらしく、なんだか久しぶりだといって浮かれていた。私は実家に帰ろうかどうしようか一寸迷ってやめておいた。まだ広島のライブにも行くつもりだったし、家に帰ったらばったり倒れてぐうぐうと寝てしまいそうな気がしたからだ。

 電車で大阪まで三十分ほどだった。心斎橋で服が見たいとサボが言い出したのでとりあえず行くことにする。何軒も何軒も連れ回されて、地元であるというのにこんなに沢山の服屋があったのかと驚くほどだった。アウアアの入り口が狭いのはねー、ここを通れないデブスははいってくんなって事なんだよー、変な節回しで言うサボは完全に嘘を付いている笑い方をしている。

 なぜかヴィレッジヴァンガードまで連れてこられて、なんとなく小物を見ていた。サボは市松柄の雑貨を楽しそうに引っかき回している。

「嫌いじゃないだけどさあ、ビレバンって何処も同じだよね」

そしてどこに行ってもバンギャが居るよね、そういうとサボは笑って、コーラってどこで飲んでも大体同じ味だけど、でも飲みたくなるよね。そんなもんじゃないの? と言った。

 私達はコーラを飲みにモスに行った。モスは高いなあと言うと、稼いでいる私が奢りましょうと笑う。流石に年下の子に奢られるのは嫌だから丁重に辞退すると、じゃ、また今度ね、などと言われてしまう。

「いや、ホント小銭持ってるんですよ。殆ど貯金してますけど」

「えーでも、なんか」

「水商売やってる子はいやですか?」

「そんなんじゃないよ! 違うんだけど」

「えー?」

「違うんだけど……、躯には気をつけてね」

 沢山言いたいことはあるはずなのに、巧く言葉に出来ないのが嫌だった。せいぜい言えることといえばその位で、酷くとんちんかんなことを言ってしまっているはずなのに彼女は笑ってうん気をつけるよと言ってくれた。

「真知さんは優しいねえ」

 なんだか逆に申し訳ないような気分になる。サボの目は透明だ、白目の底が青く透き通っていてまるで子供のそれのようにも見えた。その目を見ていると私はふと、地元にあるお店のことを思い出した。

「開場まで大分時間があるね、歩いて十分くらいかかるけど私の地元に良い店があるんだ、行く?」

 ぽつんと言った言葉に素直にサボは反応する。にこっと笑った頬にえくぼが出来ることを私は知った。暫く歩いているとなんだか鼻の頭に冷たい水滴が一滴。幻覚かと思ったけどどうも夕立みたいだった。未だ昼間なのにね、と私達は顔を見合わせて笑う。お店について暫くしたころには、なんだか強くなってきて、本降りになる前に店に入れてよかったね、とまた彼女は笑った。

 お店は古い建物を改装して雑貨屋や喫茶店が入っている一寸不思議な所だった。私の実家まではここからまた数分歩いたところになる。心斎橋までそんなに近いというといろんな人が羨ましがるが、私にはそれが普通なので逆にそうでない生活がよく解らない。奥にある喫茶店の、小さな庭の見える席に陣取ってベトナム式の練乳入りコーヒーを注文する。サボはメニューを矯めつ眇めつして、結局小さな声で、ほうじ茶、と言った。

 ベトナム式コーヒーは豆がアルミの容器に入ってコップの上にかかっている。一日何円のドリップ式インスタントが金属になっている様な物で、持ち上げたときになんだか凄く軽いのが逆に愛おしい。

「なんだかいいところですね」

「そうかな」

 真知さんが自分からどこかに行こう、って言い出すのはじめてだったから、ちょっとびっくりしたですよ。そんな風に言って彼女はフフッて笑った。そこだけ年相応の可愛い感じだった。雨はもう大分緩くなってきていて、開場までの良い時間には止みそうな雰囲気だった。さあさあという悲しい雨に打たれて庭の好き放題の緑は少し沈んで見える。ほうじ茶は小さな急須から自分でお茶をいれるタイプで、幾ら飲んでも無くならないようなそんな気がした。

 こんな時が永遠に続けばいいと思った。バンドのことも月子のことも全部忘れて、一週間前には知りもしなかった人とお茶を飲んでいられればいいと思った。でも彼女との付き合いもやっぱりバンドがきっかけで、月子がここにいないのもバンドのせいで、私の全てはバンドに与えられていて奪われているようなそんな気がしてしまう。

「あ、そろそろ入り待ちしたいから行きたいなー。もう遅いかな」

 そしてやっぱり、席を立つ原因もバンド。

 

  ライブハウスの前には既に少女達が沢山沢山居た。今日のライブもまた訳の分からない対バンなので、少女達の雰囲気もまたばらばらだった。痩せている子、太っている子、綺麗にメイクをした子、スッピンの子。柔らかなピンク色のスーツの子、ギャルの子、黒の裾を引きずる子、制服の子。目眩がするほど沢山の女の子達。

 サボはセーラー服の女の子とさっきから親しげに喋っている。話の内容はやっぱり誰かはファンと付き合っているとか、誰かは実は既婚だとか、そんな話で。楽しそうだなあと思って見ている。似たような白いバンが二台ほどライブハウスの前に留まっていて、狭い道なのにいいのかなあと思ってしまう。偶にメンバーやローディが車に戻って何か荷物を取り足すたびに、少女達が騒ぐのでどこにどのバンドのファンが固まっているのかだいたいわかってしまった。どこか別の所に車を止めているバンドもあるらしく、金色の髪にピンクのエクステなんていう男の人が通りの向こうの方から荷物を抱えててくてくと歩いてくるのが日常から完全に遊離していておかしい。

 バンドマン達が姿を見せなくなったけれど、サボはどうも人気者みたいでいろんな人に手を振られたり話し掛けられたりしている。ぼんやりと横で話を聞いているのも別に退屈しないから良いのだが、それでもすこし暇だなあと思ったころに列が出来だした。私のチケット整理番号は五十番ちょうどで、解りやすくていいや、とそのまま並ぶ。キャリーからライブ用のシザーケースを取り出し、携帯や財布を入れていく。サボは猫の顔のポーチにいそいそと携帯をしまっていた。赤いラインストーンをとにかく沢山貼った携帯はきらきら眩しく輝いていた。水乃さんと遠野さんも大分遅れてだが、なんとか開場前には間に合った。遠野ママ、久しぶりにあったらまだ私を二十歳扱いするんねー、と言って笑う。

 入場してしまうと特にやることもないのでキャリーを置いた隅っこに荷物にまみれて座ってみる。サボや水乃さん達はとっとと最前交渉※に行ってしまった。熱心だなあと思うが、そもそもバンド予約で入っておきながらぼんやり床に座っている私がおかしいんじゃないかとも思う。

 ライブが始まった、オープニングアクト※は名前だけは聞いたことのあるバンドだった。特になにも思わなかった。

 物販※でも見に行こうと思って荷物を水乃さんに頼んで立ち上がった。シザーケースを腰に巻くのも怠く左手に引っかけたままにする。物販には特に目新しい物はなかった。どこかのバンドのステッカーがやけに可愛いのが目を引いたけれど、今更ステッカーをどこに貼れば良いんだろうか、昔ならボックス※があっただろうけど。

 ライブハウスはそこそこ込んでいて動きづらい。とりあえず空いている空間沿いに動いてみると逆方向の壁にしか行けそうになかった。ふと見ると座っている影に見覚えがあった。私はシザーケースを左手に持ったまま、右手でそっとその頭に触れた、茶色い、ふわふわした、優しく柔らかい髪の毛。薄暗いライブハウスで、私は魚を捕まえた。彼女のキャミソールはきらきら光るビーズの刺繍で、鱗みたいだった。目尻から、たくさんたくさん真珠のような涙がこぼれていた。

 山積みにされた誰の物とも知れない荷物の横で、彼女は確かに魚に似ていた。ステージに掲げられた、薄い膜が後ろから明るく明るく光に照らされ、人の姿が浮き上がって歓声が上がった。オープニングアクトはたしか名前は聞いたことのあるバンドだった。少し高い声で、少しへたくそな歌が聞こえる。

「心配、した」

「ごめん」

 俯く目の色は、カラーコンタクトで青緑。静かな南国の海みたいだと思った。凪いだ透き通る、白い砂浜。オンザビーチ、声に出さずに言ってみた、月子の好きな、エンデの歌。砂浜の上、何が有るんだろう。白い砂の上、凪いだ海、青緑の海、月子の羽織った白いガーゼのシャツは中途半端な袖丈で彼女の腕の細さを強調する。

 腹が立った。

 私も楽しいと言える旅行だったくせに、水乃さんや遠野さんやサボと遊んでいたくせに月子に無性に腹が立った。幕が開いて、歓声はさらに大きくなった、早いドラムにギターが被さって、場内で爆発した。私は彼女の頬を、持ったままのシザーケースで彼女を思い切り殴っていた。そんなことはしたくなかった。彼女を殴る理由なんて何一つ無かったし、私にそんな権利はなかった。月子は泣きやまない。水がいつの間にか踝まで来ていて、私は現実が綻びかけていることを知った。声のない一瞬の涙は確かに美しかったが、すぐさまそれは鼻水を啜る音と甘い嗚咽の声にすり替わる。吐き気を催しながら抱き締める、細い体からは甘い匂いがしていて、それは彼女がいつも使っている赤いハート型の瓶の香水の匂いだったが、髪の奥に煙草の匂いがして、悲しくなった。

 これは、恋ではないのだけれど。それでも悲しかった。

 その後のライブ中はずっと手を繋いだまま見ていた。スパングルが出ても、エンデが出ても手を繋いだままだった。アンコールがかかり、演奏が行われ、客電が付いても手を繋いだままでいた。繋いでいない方の手で私はだらりとシザーケースを持ち続け、月子は顔や口元に手をやっていた。ライブハウスは涙に満たされ、ステージの上の全てのライトは水越しにきらきら輝き続けた。逆ダイやフリや咲きで集団が動くたび、水はゆっくり、ゆっくり揺れた。水中のくせに苦しくもなかった、だって幻だから、妄想だから。

 私達は小声で話をした。ステージの上から響く音に声は消されがちだったけど、伝わっていないことが逆に変に安心を感じさせる。月子はもうずっとその人と付き合っていると言った、数日前バイト後に泊まりに行ったのも彼の家だと言う。

「私のこと、嫌いになった?」

 そんなことを訊くので、とりあえずううん、と言っておいた。

 終演し会場の外へのドアが開かれると徐々に水は抜けていった。お互い別々の知り合いが横を擦り抜けていって、笑いかける人や軽く会釈をしてくれる人も居たけれど、私達は根でも生えたかのように動けないでいた。水乃さんは複雑そうな笑みを浮かべて、じゃあまたね、と言って会場の外に出ていった。人があらかた出ていって、場内に数えるほどしかいなくなった。

 ライブハウスのスタッフが、早く帰れと言うようなことを、やたらと丁寧な口調で叫んでいる。私達は手を繋いだまま荷物を拾い、階段を下りた。外に出るとやっぱり熱気のこもった大阪の夜で、繁華街のネオンが馬鹿みたいにたくさん点いている。

 手を離そうとそっと力を抜くと、なんの抵抗もなく彼女は寧ろ自分で手を引いた。

「行くの?」

「うん」

 あの人、待ってるし。先ホテル行く。あの人、と言うのが多分バンドマンなのが嫌だった、バンギャが麺をそんな風に呼ぶのがなんだか笑えた。月子は一人で、だけど背筋を伸ばして道を歩いていった、どこかの角で曲がって彼女の姿が見えなくなったとき、私は泣いた。地面が一気に波打ち、ネオンの光は鋭く炸裂した。

 通りすがる人たちが私を変な目で見ていることに気が付いて、とりあえず私は必死で涙をこらえ、痙攣する腹の底を押さえようと苦労する。どこにも行くところがない、と思ってから少し笑ってしまった。ここは日本で二番目の都市だ、どこでだってご飯は食べれるし眠れるや。キャリーを引っ張り歩き出す、でこぼこの地面の上でひっかかって跳ねてそれでも一歩一歩確かに。下を向いていた顔を上げ、道路のはしっこを睨む。

 透き通った目で、見返された。

 小柄な男性が、こっちを見ている。黒髪の、見慣れたTシャツを着た。スパングルの、晶彦。うたうひと、きれいなひと。私に何もかもをくれて何もかもを奪った人。よく見知った人、全く知らない人。幻覚が続いているのか、それともこれも現実なのか、解らないけれど舞台の上と変わらず綺麗だった。唇が百万の言葉を孕んで結ばれている。どうか歌を、歌ってくれないかとそんなことを思うけれど、誰かに呼ばれて、きびすを返して車に乗り込む。

「……待って!」

 右足半分車に乗り込んで、律儀に静止してみせる。振り返った顔は街灯のせいで不思議な陰影。

「ファンです。広島も行きますがんばってください」

 言いたいことは沢山あるはずなのに、口から取り出すのはそれくらいで精一杯で、彼はにこやかに笑って手を振って乗り込んだ、完全な営業スマイルに目眩がする。

 漫画喫茶で時間を潰して朝方のJRに乗り込んだ。車窓から見える電線の上下がまるで波のよう、電車は海中と水上を行ったり来たり。浮かんで、沈んで、底のほう。水は澄んでどこまでも見渡せる、私は相変わらず幻覚を見続けている。

 広島の駅から町へ、道路は相変わらず斜めに歪みっぱなし。私はふと、この幻覚だけが実は本当のことで、後は全部嘘なんじゃないかという気がした。私がスパングルを好きなことも、ここに月子が居ないことも、スミレコのみんなの存在もみんなみんな嘘なんじゃないかと思った。でもとにかくライブハウスに行こう。難しいことはそれから考えよう。

 

 

 

 

 

 

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