沈んだ小石
彼はずっと、その音に惹かれていた。僕はと言えば、そんな彼をぼんやり見つめるくらいしかしなかった。
「何時か本当のお父様が、私を迎えに来るのだ」
そんな風に、確証に満ちた声で話す彼を、僕は何時も厄介者でも見るような目で、見た。彼のその妙な妄想は、「不幸な」半生を送って来たせいであったと思う。閉塞的なこの町において、彼の薄色の髪や肌は明らかに異端であった。制服の端々に違和感を持ち、日に透けるその髪は美しい金色を呈し、その手足も白く細く伸びて、人ならぬ雰囲気すら、有った。
彼の母は、彼のことを少々持て余すようなそぶりを見せていた。彼女は平々凡々な未亡人であった、少し白髪の混じった髪をまとめている。そして彼の奇行を見聞きする度に、少し眉をしかめて、深く溜息をつくので、あった。
「なあ、君。少し母親を気遣っちゃあどうだい、そんな妄想ばかり考えている年でもないだろう」
放課後の教室で、僕はそんな忠告をした。
「妄想ではないよ、その証拠にほら、この音が聞こえないかい」
「人の声や、風の音しか聞こえんよ」
「そうか、残念だなあ。私には、異様に美しい音が聞こえているよ」
彼の話を纏めると、物心ついたときから、天上の楽の音とかと思うような音が時折聞こえていたのだが、最近ずうっとその美しい音が何処ともなく響いてくるのだと、そういった事であった。
「こんな事、母にも言っていないのだがね。
彼は楽しそうに喋る。
「実は、お父様が私を呼んでらっしゃるのではないかと、思うのだよ」
学帽の下から、金の髪が、透けた。
或る夏の日、彼の姿をぷつりと校内で見かけなくなった。夏休み中だから当然なのかも知れないが、授業にはさして熱心で無かったが、美術部に在籍し部室で毎日画布に向かっていた様な彼である。覗いた部屋はがらんと墓標のようにイーゼルやカンヴァス、木の固まりがあるようだった。持ち帰りでもして、家で仕上げているのかと思い、そっと戸に手をかけると抵抗もなく開いた、油と、人の臭いが鼻を突く。彼の絵は用意に見つかった、さして大きくもないカンヴァスに、酷く美しいセルリアンブルゥや緑青が踊り、注意してみれば溺れ行く人にも、大きな魚にも、体を横たえた鳥にすら、見えた。下地の白が露出したり、突飛な色が見えているところぞなく、もう随分出来上がっているようであった。
そのまま立ち去ろうと思い、身を翻すと、僕の肩掛けの白い鞄がどこかに引っかかり、絵はがらりとイーゼルから落下した。慌てて拾うと、もうすっかり油絵は乾いていたらしく、絵にさしたる傷は無かった。安堵しつつ置き直し、今度こそ帰ろうと後ろを振り返ると、彼が、居た。
「人の絵を落として追いて挨拶も無しか」
「……済まなかった」
彼は目をそらし、絵を見た。そして傷などがないと確認するとほっとした顔で、いいよ、もう。と一言だけ言った。髪の色が更に一段薄くなったようで、ぼんやりとその白い頭を眺めていると、彼は何か呟いた
「何だ」
「髪、色が」
「随分抜けたな」
「ああ、屹度雪みたいな白い色になる」
そういったきり、黙ってしまう。髪も肌も睫でさえ確かにずいぶんと白い。目が夜のように黒いのが、どことなく浮いていた。
「綺麗な青だな」
僕はその場を取り繕うように、そんなことを言った。彼は嬉しそうに顔を上げて、かすかにはにかんだ笑みを浮かべた。実のところそんなに旨い絵ではなかった。その色の美しさに騙されそうになるが、絵の具を塗っただけと言っても良さそうである。
「これは、町の風景なのだよ
彼はそんなことを言い、また俯く。
「私の本当のお父様が、待っていらっしゃる、町の風景」
ああ彼は、未だつまらぬ妄想に憑かれているので、あった。嬉しそうに微笑みながら、その町やそこに住む人々がどれほど美しいか語る。その目で僕を見ようともせずに。
「でも僕はそろそろこの町を出るよ」
「何故」
「お父様が呼んでらっしゃるんだ」
近くの机から椅子を引っぱり出して、僕はがたんと乱雑に座った。なるだけ冷たい声音を作って、言う。
「いい加減に目を覚ませ」
「目を覚ますのは君だろう、自分が理解できないことに対して知らんぷりばっかりするんじゃぁないよ」
「うるさいな、君がもし出ていったら君のおかあさんはどうするんだ」
「何故僕があんな女の事を気にしなきゃならないんだ、僕はお父様に呼ばれて居るんだぞ」
激高した彼の、上気した頬や、端を噛んでゆがめられた唇は、美しいのか醜いのか、よく分からなかった。その明らかに危険な思想に、僕は何も言えず、ただ呆然と彼の幾分か赤みの差した顔を見ていた。
「君……」
「そうそう、町を出る前に色々スケッチをしておこうと思ってね、一緒に行くかい」
そういって、笑った顔は綺麗で、僕は彼のことが分からない。
「屹度今度一緒に行こう」
「約束だ」
また、綺麗に笑う。
あの蒼い絵はほおって置かれたまま、十数日がすぎた、補習帰りなどに時々見てみるのだが、薄らと埃さえ積もっているようですら有った。絵のことはよく分からないが、良いことではないだろうと要らぬ心配をしてしまう。約束は果たされぬまま、更に数日がすぎ。僕は母から、彼が夏風邪か何かを拗らせていると、聞いた。何でも川に溺れたというのだ、たまたま通りかかった人が助けたらしいが、溺れたと言っても静かに沈むのを待っていたという感じで、服を着たままだからおかしいと思ったというのだが、まるで、自殺のような雰囲気であったらしい。
彼は、馬鹿だ。一体何を考えているのやら。
翌日の学校帰りに、僕は彼の家の近くを通ってみた。何かと都合があり、帰りが遅れたので、景色はもう薄い闇に侵されている。なのに彼の家の窓には、明かり一つ付いていなかった、妙だなと思って近づいて行くと、玄関からなにか辺りに気を使う風にして彼が出てきて、小走りにどこかに向かっていった。それは、川の方への道だった。
僕は急に、彼は死ぬつもりではないだろうかと、突飛な考えをした。それは妄想にしてはあんまりにもリアリティがあったので、思わず彼のことを追いかけた。
強い風が吹いて。草はざわざわと泣き、木々はごうごう呻いた。
そして彼はそこにいた、死んだ世界のような河原に一人で立っていた。丁度出たばかりの月が河原の小石や、流木の欠片を白く照らしていた。彼の髪や腕やシャツまで白い。僕は彼の名前を叫び、彼は躊躇無く水の中に入っていった。
「何をしようって言うんだ。早く、早く戻ってこい」
まだ今は彼の膝ぐらいまでしか水はないが、この川の中辺りはとても深い。叫び続けていると、ようやく彼は僕の方を振り返って言った。月が雲に隠れ、辺りは急に暗くなる。
「呼ばれて居るんだ、お父様に。君にはあの音は聞こえないのかい」
「ああ、何も聞こえないよ」
「喜んでくれ、僕はやっと故郷に帰れるんだ」
「此処が君の故郷じゃないか」
「いいや、お父様のいるところが僕の故郷だ」
そう言って、彼は岩か何かの上に載ったのか一度ほぼ前身を水の上に出すと、一歩二歩と進み出し、沈み始めるのであった。月がまた出てきて、その光景を容赦なく照らすので、あった。肩辺りまで沈んだとき、彼は手を空に伸ばし、首はぐっと上を向き。幽かに何かの歌を歌い、ゆっくりと、耳や髪や唇が水中に消えて行き、爪の先まで沈んだ後。僕はその歌こそが、彼がずっと聞いていた音であると理解した。
そして、声を上げずに静かに泣いた。涙は頬を伝って小石の上に落ちた。川と一緒に流れて行くのだろう、これから。