人と俺は違うぞとアピールしたいけだるい高二の夏休み。めんどくさいのでひたすらアイス食ってゲームして友達と遊んでたらいつの間にか8月も25日だった。笑えねぇ。部屋に散らばってる紙屑など、たぶん俺が7月中盤くらいにまだぴちぴちしてた頃には、宿題とかそういう未知の品物だったはずである。良く目を凝らしてみると数学のようだ。この三角形の辺ABとsinCを求めよ。知るか。そもそも求めよって何だ、何でそんなに高圧的なんだ、小学校のときにはこたえをだしてくださいとかそんなんだったはずだ。何でそんなに高圧的なんだ。まあそんなことを言っていてもしょうがない。
「なんとしなきゃな」
声に出して言って見るが、実はそんな気は更々ない。体は重いし汗ばんでいるし、精神は芯まで冷えて腐敗している。隣の部屋から妙に甘ったるい声が聞こえてくるので、また俺の姉であるが認めたくはないブスがなんか変な歌でも聴いているんだろう。22にもなって大学にも行かず、専門学校は半端に通い、気持ち悪い絵を描き、三日にいっぺん手首を切るような。完璧な屑である。ここまで考えて俺は俺も屑であるということに行き当たった、仕方ないので忘れることにする。友達に電話をかける、コール3回、留守電、切る。別のやつ、出る。今日暇ー?
やつは自分がいかに今幸せかと言うことをこっちの用件も聞かず語り倒したあげく一方的に電話を切った、屑だ屑だ、こいつも屑だ。冷蔵庫をのぞくとぽつんと残っている焼き肉のタレとわさびマヨネーズと食パン3枚、アルコールを探せど無く、結局冷凍庫の氷をつまみに段ボールから出したビールを飲む、水っぽいしぬるいので食器棚に飾ってあったウイスキーにしようかと思ったが、親父に殴られるのを覚悟して飲むような物でもなく、あきらめる。氷が奥歯に凍みる、一昨日殴られたところだ。親父は無意味に俺を殴る、あの女は殴らないくせに。黄ばんだ壁を見上げると天窓、場違いな剽窃のようにそこだけ青空、俺を溶かそうとする陽光、これ以上浴びればきっと精神すら掠れて肉体は塩の柱になって消えるはず。下らない妄想。
気分が悪くなってきたので、外に出ることにする。俺の住む町から商店街を抜けてしばらく、地下鉄にして一駅分歩くと繁華街に出る。あまりそこらでは遊ばないが暇は潰せる、暗くなって涼しくなるまで帰らないつもりだ、この家は晴れた日には埃の、雨の日には黴の臭いがして憂鬱になるからあまり好きじゃない。何も持たずにふらふらと外に出ると案外涼しかった、腕にぴたぴた絡んでくる風はもうクーラーが吐き出す風とそう変わらずに、鳥肌を立たせる。無意味な反応、こんな物無ければいいのに。
特に何も考えずに、歩いて行こうと思った。人混みの中にいると退屈は増すが気は紛れる。流動する人の波を見ていると、目眩を覚える。こんなに多くの人が何らかの目的を持ってこの場に集合している、それが何となく怖い。視界の端に手を降る影を認め、そちらを見るとさっき電話をかけて出なかった友人、ユーリが居た。
「電話、留守電になってたけど?」
俺が言うと、ユーリは薄笑いを顔に張り付かせながら地下にいたからといった、まだ少しなれていないとも付け足す。俺達は移動するときはたいがい地下鉄を使う、ユーリはこの市の生まれではなく、高校にはいるときに越してきたらしい。そのせいか今でも時々馴染んでいないことが発覚する。ユーリの言葉には、幽かに訛りがある。それはこの町生まれの俺ですらどこか郷愁を感じさせる物だった、俺達は何故か誰一人として彼の故郷を知らない。
「だけど、どうしたの。シュウが人混みに来るなんて珍しいね。」
薄笑いを固定したまま、ユーリはちらちら手元の時計を見ながら言った。
「暇つぶし、家にいると腐ってきそうだったから」
「ああ、分かる分かる。シュウの家って腐ってそう」
「酷いな、最近ちゃんと片づけてるよ」
「嘘っぽいなぁ」
ユーリはまだ薄笑いで、最近こいつの顔にへらへら以外に形容できる表情が浮かんでいるのを俺は見たことがないような気がする。時々首を絞めた後地面に叩き付けるか本気で罵倒してみるかしてみたくなるのはその顔が微妙にむかつくからだと思っている。奴はそこそこ整った女顔をしているため、その曖昧な微笑はいかにも不誠実な印象を与える、そして始末の悪いことに実際そうなのだ。結局、まともそうに見えるがこいつも屑だ、ここまで屑揃いでカードに喩えるとロイヤルストレートフラッシュでも出そうな勢いに情けなくなってくる。
へらへらと笑う、神経に障る口元だ。
「どこいくの、待ち合わせ?」
これ以上喋っていると殴りたくなりそうな気がするので、なるべく素の顔を作って言うと、ユーリは無暗に長い前髪をかき上げながら、バンドの練習と答えた。
「まだやってたの」
「やってたよ」
「ふーん」
「でももう止めるかも、俺も来年受験な訳だし」
「そんなもんなんだ」
「うん」
嫌そうに、でも薄笑いのまま言い捨てるとポケットからくしゃくしゃに潰れた煙草の箱を出してなれた手つきでジッポを開ける。元々5年くらい前から在るバンドに新メンバーとして入ったと1年くらい前ユーリは言っていた、そのときは薄笑いではなく、普通に笑っていたような気がする。誰も知らない2年前のユーリ、まだそんなに屑じゃなかった1年前のユーリ。屑になった今のユーリ。
「もう駄目なんだよ。」
屑になった今のユーリ。
並んで歩いていたせいか、気が付くと一応の目的地をそれて繁華街の中心の方へ行ってしまっていた。そのままユーリは頼りない足取りで町の中に消えていった。俺は急に手持ちぶさたになって、近くのヴィレッジ・ヴァンガードに行ってみた、暇すぎて倒れそう。デザイン系の本を見て、友人の玉城という女の子に似合いそうな椅子を見つけたり、適当に買いもしない雑誌を読んだり、玩具の拳銃を見たりしていた。もう今日は屑の日決定なので、何となく銃口をこめかみに押し当て撃つふりをしてみる。辺りに人が居ないのを確認した上で、速やかに行動を起こしたため嘲笑を浴びずにすんだ。混んではいないけれど、人はそこそこ居る店内。
口の中が乾いてきて、俺はサクに会いたくなった。
サクはこの近所のカフェーで何時も一人でいる少年で、いつか玉城が写真のモデルにしていた。玉城は本当に何でもする、小柄で痩せた体で何処までも出かけていく。同じクラスにいて、席も遠くないくせに、何故か時々彼女を異様に遠く感じる。でも、彼女も屑だ、比較的ましなように見えるけど、見えるからこそさらにたちが悪い、むらっ気があって、自分に才能があると思っている、無いわけではないのだが、彼女は自分の実力を過信しすぎているように見える、もしくは世界を過小評価しているか、どちらかだ。
本屋を出て、コンビニの地下にあるサクの店まで、人の影を踏まないように注意深く歩いた。意味なんて無かった。青いタイルばかりを選んで歩いた子供の頃に戻りたいわけでもなかった。あのとき俺には、赤いタイルは地雷だった、踏んでも何も起こらなかったけれど。
平日で、天気も悪かったから、案外楽に着いた。この店はViciousという名前の割には案外居心地が良い。何時もサク一人しか居らず、オーナーだシェフだのギャルソンだのといった人影を見たことはない、居るわけもないが。清潔感あふれるコンビニの横に、不釣り合いな階段がある、黒いスチールの手すりがうねって着いている階段は、丁度13段目で直角に曲がって、白い木と黒い鉄と透けるガラスで作られた扉が、控えめに確実に待ちかまえている。扉の横に地下なのに何故か窓があり、鉄格子に覆われていた。階段途中の店名が刻まれた銀色のプレートをなでながら階段を下りる、重いドア開けると案外に明るい白い店内。隅の方に、玉城が座っていた。
「あれ、シュウ。珍しいね」
手元の細長いグラスが汗をかいている、深く紅いジュースが電灯に透けて。とても綺麗だった。
「歩いてたら、のど乾いちゃってさ。」
カウンターに座ると絶妙なタイミングでメニューが差し出された。サクはそのまま後ろを向いてオレンジジュースのための銀色の機械をさわりだした、きっと自分のために作っているんだろう。レバーを落とすと、幽かに機械の音がする、小さい的確なリズム、サクの髪が揺れて踊っているみたいな気がした、この世で一番小さな動作のダンス。そんな屑みたいな事を考えていると、いつの間にかオレンジジュースはできあがっていて、ガラスのコップに注がれていた。
「シュウも、これで良い?」
急に訪ねられると、頷くのが精一杯になる。細身のシンプルなコップに注がれたジュースは致命的に酸っぱくて、顔をしかめていると、コーヒー用のガムシロップを渡された。見るとサクの手元にはサイダーの瓶が握られている。やっぱりコンビニで売ってるオレンジじゃ駄目だね、と呟いた。
結局俺もサイダーで割って飲んだ、ファンタレモンの百倍ほど酸っぱかった。
「酸っぱいとさ、なんか煙草吸いたくならない」
俺がぽそっと言った一言に、サクは鋭敏に反応してきた。レスポンスの早い奴と喋るのは楽しい。
「そうは思わないけど、吸うの」
「うん、でも今持ってない」
「上げるよ」
サクは手元にあったセーラムの箱を放り投げて言った。
「シュウって煙草吸うんだっけ。」
横で玉城が首を傾げる。ごそごそと鞄を探り、黒い小箱を取り出した。
「うん、吸うよ。いつもはセブンスター。」
「あたしはこれ。」
黒い箱を、ふとかざす。骸骨マークの印刷された、やたら不穏なパッケージだった。取り出した煙草本体も真っ黒で、ここにも白い髑髏。
「Deathっていうのさ。」
にやりと笑った。
「そんなに死にたいの」
「好きなんでね、好きな物止めて寿命がちょっと延びたところで何も嬉しくないよ」
「それにしても変なの吸ってるね、外国の?」
「そ、何処か忘れたけど格好いいでしょ。」
自慢げに言う。
「でもはまってる、格好いいし。なんか玉城って格好いい」
サクがグラスを拭きながら言った、ふきんまで真っ白、この店は本当に白い。玉城は照れて、少し笑いながらサクに訊く。
「格好いいと言えばさ、前撮った写真気に入った」
「うん、なんか僕じゃないみたい」
「どんなの撮ったの」
町中の写真、らしい。そういえば絵のモデルをするといっていたので、ついでに訊いてみると、
「断った」
あっさり返された、何でも長時間動かないで居るのが大の苦手らしい。少し意外だった、彼は置物のような印象がある少年だったからだ。この店立地条件もあるのか、日に当たったことの無いような肌はセルロイドのように白く、寧ろ青みがかっていた。瞳は何処かうつろで、ガラスかプラスティック製だといわれても信じてしまいそうだった。そして少し丸みを帯びてはいる物の、美しい顔立ちをしている。玉城が惚れ込んでモデルにした理由が良く分かった。彼女は美しい物を好む、特に、有機物の香りがしない物を。
「そういえば、シュウが好きそうな歌手見つけた」
いきなり話題転換をされて、驚いていると、そんなことそしらぬふうに玉城が足元に置いていた鞄から小さな雑誌を取り出した。アングラポップ×サブカルチャーなどという馬鹿馬鹿しい文字が赤くモノクロの写真に被る。
どこだったかななどと言いながら、ユーリの顔に似合わぬ骨っぽいた手がページをぺらぺらと捲る。
「ほらこれ、『確かに破滅は在った 最後の歌 ハミ・ロリータ』だって。」
ページに挿された写真に、見覚えがあった。
「それ知ってる。なんか甘ったるい男の歌手でしょう。うちの姉が良く聞いてるよ。悪いけど嫌い。」
「そう、じゃあシュウには嬉しいかもね。これ追悼記事だから。」
初耳だ。姉はそんなことを言っていなかった、寧ろ彼女は引きこもりという奴なので、俺も姿を三月ほど見てないが。
「あれ、ハミ死んだの。好きだったのにな」
オレンジジュースにソーダを注ぎ足しながら、サクは言う。
「うん、ライヴ会場で血を沢山吐いて、死んだんだって。」
そのロリータを名乗る男は、見た目まだほんの少年で、俺はやっとあの甘い声に納得がいった、何となく男と言うことは分かったものの性別を感じるようなものではあまりなくて、変に透明な甘い甘い声だったから。
黒髪を肩にかかるか位で切りそろえて、目深に帽子を被って、唇は薄く、グレーの大きな目が怖いくらいに綺麗な、美少年だった。
「じゃあこれお姉さんにあげてよ」
玉城が鞄から一本のテープを取り出していった、透明なケースの下の黒いそれは、妙に明るい店内で、少し浮いていた。
「最後の、ライヴ音源だってさ」
「どうしてそんなもん持ってるんだよ」
「ネットに流れてるんだよ、知り合いがウオークマンで聞く用にテープに落としたの貰った。」
「今時テープウオークマンかよ。」
「ありゃ、趣味だから。じゃあ、あたしはそろそろ帰るよ。これから会う人がいるんだ。」
そういうと、幸せそうに笑った。鞄から真四角の袋を出してきて、俺達に渡した。なにこれ、炭酸煎餅、なんでそんなもの。
「温泉行って来たんだよ、後で旨かったか教えてね」
そういうと、出ていってしまった。
氷も溶けて、ジュースはすっかり薄まっている。
ところで、と話を切れ出された。俺が飲みにくいジュースに四苦八苦している間に彼は退屈していたようだった。
「ところで、シュウは何か描いたりはしないの」
「ああ、昔は小説家になりたかったよ」
俺は銀の細いストローでゆっくりと氷を回しながら言った。嘘ではない、古今東西の名作、シェイクスピアもヘッセもムラカミリューもエクニカオリも読んだ、昔は姉も屑ではなく、すこし弱いだけ、可愛げのある弱さだけの人で、彼女の薦めでいろいろな本を読んだ。あのときが俺は一番安定していて、幸福だったのかもしれない。
「今は、良いの」
「今はほかになりたい物があるから、いいんだ」
「何になりたいのさ」
「スーパーヒーロー」
ぷっと、彼は吹き出した。俺はなるたけしれっとした顔を作って、力説した。スーパーヒーローになりたい、自分の気が向いた時だけ正義の味方面をして、可愛いだけで頭が空っぽのヒロインを筋肉だけで頭が空っぽの悪役から颯爽と助け出したい。
「じゃあもう小説書かないの」
サクが女の子だったらヒロインにしたいのに、というところまで話が飛び出すと(だって、玉城は男前すぎるから)彼はふとそんなことを言った。
「さあ、だって世界に俺の小説は必要ないらしいから」
「お前の言葉に本当は何処にもない」
いきなり扉の方で声がして、驚いて振り返るとユーリが立っていた。すらりとした長い足を閃かせて大股で4歩歩いて俺の隣に座る、そしてまた言った。「お前の言葉に本当は何処にもない」
「どういう意味だよ」
「そのまんまの意味さ」
ユーリは笑って、手をふらふらふった。これが他の人に言われていたら俺はそいつを殴っていたかもしれないが、ユーリに言われても別に何とも思わなかった、たぶんユーリは自分にもそういい聞かせているのだろうと、そんな気がした。サクが注文を聞く、ユーリはふざけてレーコーとか返している、親父ごっこか。
「スタジオ行ったんじゃなかったのか」
「んー、俺もう止めるわ」
ポケットからくしゃくしゃになったセブンスターを出して加えて、ライターを捜しながら言った俺はびっくりして、最初はバンドやれるだけで楽しいっていってたじゃないか。みたいなことを言った、頭の隅ではやけに冷静にこいつは何時から煙草を吸っていたのだろうかなどと考えながら。コーヒーの臭いがしてくる、サクは慣れた手つきだ。無駄なく動いていて、何となくうらやましい。
「もう駄目だわ、やっぱ。別のバンドさがすよ」
そんなにバンドとかすぐ見つかる物なんだろうか、と考えながら、口先では適当なことを返していた。大変だな。するとユーリはふっとこちらを覗き込み、そしたら詞、書いてな、そのうち絶対な。という。俺も軽く返事をした。こういう風にどうでも良いような約束を造っておくことは大切だと思う。明日のためにその一。
「ああ、実を言うとね。色々あったのよ。俺、本質からはずれた愚痴もいっぱい言ったし」
ユーリは俯いてぽつぽつ言う。
「でも、みんな結局音楽もバンドも好きだったよ」
俯いている。
「あんなに良いバンド、ねえよ」
ぽつりぽつり、喋っている。俺は、頷くだけで何も言えなかった。
頷いて、勘定を済ませ店を出た。暗くなりかけていた、玉城はこの時間帯が一番好きだといっていた、理由を言われておれもユーリも頷いたような記憶がある。たしか「美しい物は光に栄えてもっと美しく、醜い物は闇に溶けて見失える」とかそんな話だったような気がする。けれど、夕立でも降るのか雲が出過ぎていて、綺麗な夕焼けの光は届いていなかった、降られてはかなわないので、地下鉄使おうかと思って、少し離れたところにある駅まで大慌てで走った。
ウオークマンの再生を地下鉄の中で押す。どうも最近、センチメンタルになっていけない、入れっぱなしのMDはブランキーで、古いことばかり思い出す。俺の声がもっと綺麗だったら良かったのに。そうなれば、好きな歌ばかり歌ってクラスのに。
レールの振動が響く、夏にも雪が降ればいい、地下を抜けて、外に出て、空が灰色で、雪が降っていれば、良いのに。そんな曲があったな、なんて考える。確か姉が持ってたCDのシングル、ツメタイヒカリとかそんなタイトルで、そういえばボーカルがサクに少し似ていた。
家に帰って、疲れていたのでそのまま眠った。親父は帰ってきてなくて、助かった。
夜半過ぎ、起き出してみれば物音がする。もし泥棒ならそうとうの間抜けだ、この家に盗る物など何もないのに。水を飲みがてら台所に向かうと、姉が床に座り込んでぼんやりとしていた、俺に背を向けて。いつかに似た月が半笑いの口元を晒してしんしんと差し込んでくる。
姉は、ずいぶんと痩せていた。姿を見るのはもう三ヶ月ぶりくらいだったか、襟元の大きなほくろがなければ気が付かなかったかもしれない。でっぷりと太った印象を持っていたのに、手など本当に折れそうで正直気味が悪かった。
「死んだ、」
手元に、雑誌が落ちてて。
ぼそっと、言う。顔は見えなくて。
「私の好きな、」
顔は見えなくて、言葉は切れて。小さな、モノラルのラジカセがおいてある、歌が流れている。
「ハミ」
最後のライヴのテープ、鞄に入りっぱなし。
「姉さん、早く部屋はいった方がいいよ。親父が帰ってきたら殴られるよ」
俺も今一自分が何をしたいのか分からなくなっていた。親父は一度出ていったらなかなか帰ってこない、少なくともこんな時間には帰ってこない。
「殴られるのは私じゃないもの」
「そうだね」
頷いて、ポケットに入っていた煙草を引っぱり出す。サクのセーラムはもう無くなっていた。
「そうよ。」
彼女は確認するように言った。
「ハミ、どうして」
どうして、死んだの。言葉の端は嗚咽に紛れて消えていた。
俺はその歌手のことをほとんど知らない。けどこんな風に冷えた熱帯夜には、甘い少年の歌声も良いかと思った。
「つらいね」
ぼそっと、姉がそんなことを言う。
「そうだね」
俺はそんなことしか言えない。
「そうだね」
月が雲に隠れて、部屋は暗くなる。
テープを渡す前に、一度聴いてみたくなった。
「ハミのプロモみたい。書き割りの月が、雲で隠れちゃうの」
すこし、彼女は笑っていた。
「世界全部が、ハミのプロモみたい」
俺は、世界全部が屑だと思う、悪いけど。
もう寝るね。そういった彼女の目は真っ赤で、泣いていたのに今気づいた。要らないお世話かもしれないけど、そんなに痩せておまけに水分まで絞っちゃうのはちょっと危ないんじゃないかと思った。
ラジカセのスイッチが、大きな音を立てて上がった。テープが終わった。
「最後のライブの、テープ持ってる。聴く?」
彼女はうなずき、俺は部屋に戻った。何も考えないようにして鞄からそれだけを引っぱり出す。
テープは、歓声から始まった。アンコールを叫ぶ声だった。そして歌声、甘ったるい声はやっぱり好きになれそうにもない。姉は膝を抱えて座っていて、ときどき小さな声で歌っていた。悲しくなって、窓を開ける。空は曇っている。そんな歌詞だった。
歌が終わりに近づくにつれ、彼女はぼろぼろ泣き始め、俺の手を握ってきた。指先が冷たくって、気持ち悪かった。そしてピアノが狂ったように鳴り響き、ぶつりと切れ、悲鳴が聞こえた。それが余り歓声と違わないので、最初気づかなかったけど。
後は人の叫ぶ声や足音、慌てず退場を呼びかけるアナウンス。そしてテープの砂嵐だけが残って、いつの間にか二人して眠ってしまった。一言も喋らずに。
姉は、ハミの歌を良く聴く。その日も閉められた扉の向こうから幽かに甘い声が漏れていた。
その日は始業式で、結局宿題は何一つ出さなかった。学校帰りの俺が、最初に目にしたのはダイニングの床に倒れた姉だった。新しい遊びかと思っていたが違うらしい、のどの奥で小さく笑い俺を見る。
「帰ってきちゃった。父さん」
「え、本当?」
頷くだけで、それ以上何も言わない。ドアの向こうで聞こえていたハミの歌がとぎれ、親父が顔を出す。
「変な曲聴くなよ馬鹿娘。おかえり馬鹿息子。」
さっきの姉と似た調子で、くくっと笑った。鳥に似ていると思った、首を少し傾けるところとか特に。
「くそ親父も元気そうで何より。」
あの笑い方をまねしてやろうかと思ったが、止めた。姉おかしくなってるけどなんかしたのかと訊くと、他人行儀だなぁお姉さまって呼んでやれよくくくっ。と話をずらされて、じゃあお姉さまに何かなさったのですかお父様はというと。かわいくねぇガキだなとかいって、殴られた。
親父が、拳を握りモーション付けて俺の腹にぶち込む。俺はそのままふらついて、そこをまた同じ様な動きで殴って転けたところを踏みつけて。ちょっと上を見るとまた何か言われて蹴られて。
もう、奴が何を言っているかも聞こえない。雑音の隙間すきまに入る痛みがこの状況の中で妙にわかりやすくて。
「くそ親父じゃないだろ、お父様だろ。それぐらい分かるだろ馬鹿息子。」
くそ親父。
俺はこの人のことを分からないし、知らない。
母親のことは知っている。姉が中学を出るまで一緒に暮らしていた。最後の台詞は、あんたたちももういい年なんだから、自分で出来るでしょう。そしてどこかに消えた。親父は昔からたまに来ては、意味無く俺を殴る。分かるのはそれだけ。
ああ、痛いとも思わないけど、あんまりじゃないか。
不幸だとも思わないけど、仕方なさすぎないか。
携帯が鳴った。昔の電話のベルは玉城からの着信音。うるせえよと言われ数発殴られる、そういえば今日は学校で玉城を見なかったななんて思いながら。
夕方になると親父はどこかに出かけていき、俺と姉は床に寝転がったまま、窓から見えるかきわりのような夕日を見ていた。床も姉の肌も白いワンピースも痣まみれの俺の手も小学生が適当に塗ったようなオレンジ色に染まっている。
姉が、随分酷くやられたねというから、あんたの分もねというと少し恨めしそうな顔で俺を見た。嘘ではないと思う、あいつは姉を殴らない。
携帯を見ると玉城からメールが在った。「きて」の一言だけ。一応まだ来て欲しいかという内容のメールを送ると、即座に場所を記したメールが帰ってきた。来いと言うことか、繁華街のスターバックスを指定だ。玉城からこんなメールが来るなんてまずあり得ないことだったから、軋むからだを無理矢理立たせた。姉が俺に何処に行くかと訊くのを無視して、俺は家を出た。夕日も見えなくなっていて、雨が降り出した。
玉城は笑っていた、バランスを欠いたように長く白い足が短めのスカートからひょろりと見えていた。綺麗だなと思った。俺に気づくと笑いながら手を降った、もう日は暮れていて、外からは雨の音が聞こえた。
スターバックスの店内は寒々と明るく、彼女の頬はいつもより白かった、化粧のせいかもしれないけどユニクロの袋みたいな色だった、血の気がない、ベージュみたいな。何でも好きな物頼みなよ、奢るよと言った、その言葉がどこか姉御っぽい彼女に似合いすぎて、逆に悲しくなってきた。
「顔、どうしたの」
どうなっていると逆に訊くと、髪がばさばさで片目は隠れているし、見えている方の片目は周りに盛大な痣が出来ているしとんでもないことになっているそうだ。
「リップ貸したげようか、唇、思い切り切れている。」
確かに少しがさがさして気持ちが悪かったので、大人しく塗って貰うことにする。色が少し着くけど、と言い訳めいた前置きをして、彼女はテーブルの上に身を乗り出し、俺の唇にリップクリームを塗ってくれた。目の周りは黒いし唇はピンクでつやつや、古いメイクだと言って笑う。
赤いヴィヴィアンのライターで、あの髑髏が描かれた箱から煙草を取り出し、火をつける。その様を見て俺も煙草が欲しくなり、鞄をひっくり返してサクから頂いてきたセーラムを引っぱり出し加えてからさらにライターを探す、が、見つからない。仕方がないのでそのまま顔を上げると、玉城が煙草をくわえたままぐっと身を起こした、煙草の先と先が触れてゆっくりと俺の煙草の先が赤く染まっていく、慌てて張ったバンドエイドみたいだと、そんな事を、思った。
「セーラムだなんて珍しいね」
煙草に火が移った後、会話もなく二人してうつむいているとそんなことを言われた。
「サクに貰った」
「ああ、タロの。そういえばあのとき、でもあの子煙草吸うの、以外」
「タロって」
「あの子昨太郎でしょ、本名。昨日の日じゃない方の字で昨、本当は月の朔だって言ってたけど。あの子が産まれたとき、朔って漢字使えなかったんだって」
なんだか、玉城の声はぶつぶつ途切れていた。そしてそのまま会話も途切れた。しばらく立って俺は顔を上げ、天井に視点を移し、玉城は少しだけ顔を上げ、視線を俺の襟当たりまで上げた。
「その服格好いいね、ボタン変わってる。赤いシャツなんて珍しいね」
「これボタンじゃなくて安全ピンなんだよ。赤似合わないかな、よく着てると思うけど」
「シュウはモノクロの感じがするから」
モノクなら俺よりサクやユーリの方が相応しい、詩人と同じ名を空想の中でだけ持つ朔は、何処か古びた臭いがする。あの冷えた空気は人のいない古い家のよう、ただ時間だけがゆっくり降り積もっているのだ彼の中では。今のユーリは色を持たない、彼は一年掛けて漂白されていって色を持たない、彼らは美しいのかもしれない、だけどそれは人としてあり得てはいけない物だ、彼らは捨ててはいけない物を捨てたのかもしれない。
なら俺は。
俺もたくさんの物を捨ててきた、なら俺は綺麗か。俺には少なくともあいつらみたいなさらさらした砂か真っ白の骨みたいな綺麗さは無い。少し、悔しかった。
「ねえ私不細工?」
急に玉城が、ぼそりとそんなことを言った。
「シュウは私、汚いと思う?」
鎖骨まで上がったはずの玉城の視線はまたテーブルに落ちていた、長い黒髪が垂れてドーナッツの生クリームが少し付いた。
「嫌われたの」
長い長い玉城の髪、清潔そうな水色のT-シャツの肩。
「ねえ私汚い?」
俺は何となく生クリームが付いた彼女の髪を手に取り、舐めた。髪はなんだかおかしな味がした。
「駄目だよ、私汚いよ」
玉城はうつむいたまま、小声ではっきりといった。
「この間、ヴィレッジヴァンガードで玉城に似合いそうな椅子を見つけた」
俺は気が付くと一人で喋りだしていた、玉城はまだ顔を上げない、けど声は出した。どの位似合いそうかと訊く。お前のために作られたようだったと、返すと、そこでやっと笑って座りに行こうと提案した、雑誌に載っていた写真を見ただけだというと、残念といって。でもやっぱり見たいから、ヴィレッジヴァンガード行こうと誘ってきた。俺は頷き。店を出た。
玉城に詳しい話を聞いた、ありふれすぎて涙が出そうなほどありふれた話だった。急に友人に連絡が付かないようになったらしい。友人といっても俺やユーリや玉城の関係とは違うらしく、彼女曰く「特別な友達」だった、その前日に喧嘩をしていたこともあり、玉城は案外脆く崩れた。屑だ、と思った。こいつも屑だ。何の変哲もない、屑だ。
路上で、玉城は無意味に熱弁を振るっていた、自分がキャンバスや粘土で世界をまねる理由を言っている。有機物を無機物でコピーするのに何か深い意味を感じると言っている。
「布もね、死んだ有機物だったり、石油だったりするから無機物だろう。贋作を造るのは知性在る動物の証だ。本物だけだったら本能で生み出せる、要はどれだけ格好良い贋作を造れるかなんだ」
彼女は目を大きく見開き、大声で理論を語る。もう雨はやんでいて、ぬれて真っ黒な路上にはそれこそ雨後の竹の子のようにたくさんの人が居た。
「たくさんの人とたくあんの人は一文字違いでだいぶん違うね」
玉城は下らないことを言って、げらげら笑っている。俺は今雨が降っていないことを悔やんだ、少し狂気を演じているような玉城は、滝のような雨に撃たれるのがとてもよく似合うと思う。ふらふらと幽霊のように歩く彼女をひとが避けていく。それが面白いらしく、わざと人に当たりに行ったりしている。玉城は時々、こんな風に狂気を演ずる。理由は様々だ、この前は近所で勝っている子猫が死んだときにこうなった。分かりやすい意志表示の一つだと彼女は言うが、実際問題はた迷惑なこととこの上ないと思う。
ヴィレッジヴァンガードの入っているビルは隣のビルと橋で繋がれている。吹き抜けの中に通路が着いている感じ。俺達はまず隣のビルに入った、夕立の後の空気がとても湿っぽく、熱を帯びてきていたからだ。一刻も早く冷房の中に入りたかった。
ビルとビルとの橋の上で、玉城は急に座り込んだ。
「ここから飛び降りたら、幸せになれるかな」
「何でそんなことになるのさ」
「幸せには、代価が付き物でしょう。先に大金はらっとけば幸せになれるかも」
勝手にすればというのが精一杯だった、そんなにうまくいくとも思えないとも付け足す。
「そうね、そんなに上手くいかないわよね」
そしてそのままドアまでダッシュして、勢い余ってがらくた箱のような店へと突っ走っていった。ヴィレッジヴァンガードにやっと着いたのだ。
「そういえば、私シュウの小説一編も読んだこと無いわ」
ふと、玉城はそんなことを言い出した。店に入る前に壁に貼られたメッセージをぼーっと見つめていた彼女は、それ用のボールペンとメモで、なにやら落書きを始めた、先程の橋の絵のようだった。この絵にお話しつけてよ、とせがむので、適当に話をした、「飛び降り自殺をした人が、地面に着くまでの間の時間を長く長く引き延ばして永遠に生きる。それは一瞬かもしれない、でも僕は確かにそれを感じた。
少女は退屈していた、本のような世界などあり得ないと知っていた。だけどピンクに染まった布張りに、白い繊細なレースがかかった本を取りだしては『文学はこうでなくちゃ』と呟いていた。少女は、白が好きだった。雪を見るのが好きだった。そして彼女のみた世界は、要らないと思う色ばかりがそろっていた。好きな色の上位三色が行方不明の色鉛筆のスチールケースを抱えて。少女は何時も悲しげにしていた。
気違いのような格好をすることもあった、彼女が大好きな白とフリルが満載の洋服を着て、いびつに変形した高いヒールのストラップシューズを履いて。その格好で人が沢山居るところに行くと、自分だけが不条理や非日常の申し子であるような気がして、とても誇らしかった、つまり彼女は絶望していただけだったのだ、世界に。」
「弱いのね。」
「そう、彼女は自分の弱さを知っていた。そして自分の弱さと決別するために、行動を起こした。自分の好きな本を沢山置いてある本屋の窓から飛び降りた。その本屋は彼女が嫌いなやかましい色の住処だったけど、置いてある本は美しい白や黒で非日常のありかとしては申し分のない所だった」
「そして」
「そして彼女はゆっくり心の中でカウントダウン。10数えるまでには地面につくはずだったから。でも30を越えても、まだ墜ちていく感覚は終わらない。こわごわ目を開けると、地面がなかった。
地面は、いつの間にか消え失せてビルの側面が続いていた。周りを見ると他のビルも彼女が知っているそれよりずっと引き延ばされて、やたら澄んだ空気のそこで、悪い冗談みたいに一点に集結されていた。
すっと、誰かが彼女の横をすり抜けていった。
慌てて下を見下ろすと、どうして今まで気づかなかったのか、沢山の人が落ちて行っていた。上を見上げるとやっぱり人々。彼女はのどかにこんな事を考える『ああ、生きてるのも死んでるのもかわらないじゃない』
いつまで落ちただろう、おなかはすかないけど、落ちているだけであまり生きているときと変わらない。
友達もできた。落ちていく人の体をすれ違う一瞬ねらって抱きしめれば、一瞬二人の体は止まって、その後、落下スピードが同じになったら、もう大丈夫だった、思う存分おしゃべりできた。分かれたいときは逆にからだをどんと押せば相手はしゅるしゅると猛スピードで落ちていった。
沢山の人と喋って、彼女と似たような考え方をする人も居たから、彼女は幸せになれれた。ときどき壁に底まで何メートルみたいな事が書いてあったけど、ずっと下とかそんな書き方で、ここは底は無いみたいだからこのままずっと落ちていくのも良いなと思えた。
目の前を、猛スピードで落ちていく少年が居て。髪越しに見えたその目がやたら真っ暗で綺麗だったから、彼女は大慌てで彼の手を握った、一瞬引っ張られると思えばすぐさま静止して、二人はまたゆっくり落下し始めた。
『ねえ、名前は?』
『忘れちゃったから好きに呼んで良いよ』
『じゃあクロって呼ぶわ。私の猫に似てるの』
『じゃあ君はシロだ、真っ白のドレスを着ているから』
彼女は、クロの事をたちまち好きになった。落ちながらばさばさ揺れる黒い髪が綺麗だと思った。
『クロ、私たちもだんだんスピードが違ってきてる見たいよ』
『困ったね、じゃあシロ、手を繋ごう』
そして、一瞬止まってまた奈落の底に。
いつの間にかずっと時間はたっていた。
ある時、ふと下を見たクロが、驚いた声を上げた。
『シロ、もう地面まで33と三分の一メートルしかない』
『ああ、本当。』
『いつのまにこんなとこまで来ちゃったんだろう』
彼は不思議そうに瞬きをして、その目の色が、一番最初に見たのと同じ色だったから彼女は安心して彼と手を繋いだ。
『最後にずれてたくないから、手を繋ごう』
二人して笑ってカウントダウン」
玉城が、急にぽろりと涙をこぼして。
「あと三メートルだよ」
ほらまた、大粒な、
「あと二メートルだよ」
左目、右目から、
「あと一メートルだよ」
きっちり三粒。
「ありがとう。」
どうして泣くの。
そのままぼろぼろ泣き続ける玉城に、俺は何も言えなくて、ポケットの中から一本だけ残ってた煙草を引っぱり出して、火をつける。
ライターは今度はあっさり出てきた。
煙草の煙がゆらゆら溶けて、蜘蛛の糸みたいだ。重力に逆らって伸びていく蜘蛛の糸。「そんな話、造れるのに。」
玉城が嗚咽しながら何かいっている。
「どうして自分のこと、役立たずみたいに云うの」
俺まで、涙が出そうになって。俯いて。
「それ、ちょうだいよ。要らないならちょうだいよ」
何を欲しいと云うんだ。あげるよ玉城になら、直ぐにでもあげるよ。
「要らないって云うならちょうだいよ、才能」
無い物はあげれないよ。俺に才能なんて無いよ。
道行く人たちが、俺達のことを怪訝そうに見ている。横をすり抜け店内に消えていく女子高生の幸せそうな笑顔、恋人達の楽しげな会話、何かが足りない気がする。何か、焦るような気がする。
俺達は、どうしてこんなに、生き急いでいるんだろう。毎日、焦りすぎている気がする。向こうの、ガラス張りのドアから見える外は真っ黒。息が詰まって仕方がない。
誰か、助けてくれればいいのにね、ねえ玉城、どうしてだれも助けにやってこないんだろうね。
店から漏れてくる軽快なラッパの音が耳に付いた。甘くない女の歌声は好きだけどピアノが神経に障る。こんな夜には填りすぎて嫌になる。
「なんか、聴きたい曲ある?」
「これで十分、はまってるし」
「はまりすぎてるから嫌なんだよ」
いつの間にか、泣きやんでいた玉城がとんちんかんな返事をしたのが気にくわなくて、苛つきながら云うと、込められた悪意に鋭敏に気づいたか玉城はしょんぼりと云った雰囲気と一緒に黙り込む。うざいし。
ずっと黙っていると、玉城はどうしてか歌い出した。知らない歌だった。
「誰の歌?」
何となく気になったんで、聞いてみる。
「あたしも良くわかんない。貰ったテープに入ってた。」
「良い歌だね」
「うん、凄い良い歌。おしむらくは歌詞がよくわかんないこと。今歌ってたのは、空耳アワー。……月にさよなら、溶ける欠片、繋ぐひとひら。」
その歌が、耳について仕方なかった。後日、ラジオでその歌を聴き(空耳アワーの歌詞はやっぱり間違っていた。)そしてその歌は俺のお気に入りになった。それなりに売れていたアルバムのまんなかあたりに入っていたその歌は、前奏にかぶって流れる波の音がとても綺麗で、その日も俺のウオークマンの中で流れていた、波の音。
玉城からメールが来て、目が覚めた。時刻は丁度8時、たぶん学校からだろう、相変わらず真面目なことだ。炭酸煎餅の感想でも聞くつもりなのだろうか、そんなことを思いながら見ると、とりあえず今すぐ学校に来いとのこと。俺が学校に行かないのはそう珍しいことではないから、これは何か面白いことでもあったに違いない、担任の小倉のヅラ疑惑でも発覚したのかと思いながら着替えて、家を出た。こういうとき家が近いと楽だ、俺が住む家から学校まで歩いて7、8分ほどの距離である、慌てて走っていったので5分もかからず付いてしまった。九月と言っても、始まったばかりでまだ粘り着くように暑い。耳に引っかけたヘッドホンからはあの波の音、朝はやっぱり気持ちがいい。
校門ををくぐると校舎沿いの壁にベンチが固めておいてあった、立入禁止という張り紙があり、俺はペンキ塗りたてかとか、それにしてはスチールのも一緒に置いてあるのはどういうことかと思った。
教室はなんだか騒然としていた、俺が鞄を自分の机に置くと、つつつと玉城が近づいてきた。
「聞いた?」
「何を」
実際、いったい何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。玉城が俺を呼んだ意味も、まだ。
「一年の女が飛び降りたらしい。私が来たときにはもう片づいていたから、良くわかんないけど、自殺みたいだ」
「へえ、珍しいな。この学校で」
本当にとても珍しいことだと思う、この学校は陰湿ないじめなどが少ないことが一つの自慢のようになっているのだ、まあ、表向きは。しかし驚いた、今までそんな話は本当に聞いたことがない、学校で飛び降りだなんてそんな非現実の話在るわけがないと思っていた。不謹慎ながら少しドキドキした、このまま非現実が増えていって俺達の世界が代わりはしないかと思った。少し辺りがよく見えるようになったような、そんなよく分からない感覚が、やってくる。
「普通に授業するのかな」
「全校集会でもやって早終わりじゃないか」
「この学校じゃ、普通にやるかもよ」
それはないだろうと思って、無言で玉城を見つめると、玉城は笑って。
「賭けようか」
「それさすがに不謹慎じゃないか」
「ありでしょ、もし早終わりならいい物あげるよ」
玉城はにやにや笑って。言った。これは腹に一物もってやがるなと思って、その一物にのってやるのも悪くないかと思い直した。
「いいよ、乗った。俺が負けたらスタバのフラペチーノ奢ってやる」
「キャラメルでね」
遅れてユーリがやって来て、今分かっていることを話すとやはり少し驚いた様子だった。自殺するほど頭が悪いか、自殺しなけりゃいけないほど頭がいい人がこの学校にいるとは思わなかったらしい。なるほどね、俺達はどちらでもないわけだ。
俺は、現実って案外簡単に壊れるんだなと思った。
授業は全く持って普通に進められた。
俺達、日常やってるよ。ユーリはつまらなそうに頬杖をつき。玉城は愉快そうにくくっと笑いながらキャラメルフラペチーノを楽しみにしている。
一人すぐ側のタイルに血をこぼしたかもしれない、あのベンチに落下したのかもしれないのに日常やってる。今日は昨日の続き、昨日は一昨日の続き。休み時間、廊下を体操服姿の一年生が笑い喋りながら通り抜けて。玉城が軽く溜息をつき、あれ自殺した子のクラスだと言った。
日常が世界を沈めていく。
つまらない。まるでこれは昨日の続き。
「ところで、やっぱり自殺らしい」
ユーリが急に神妙な顔つきで言った、やっぱりかと思って、そして少し羨ましくなった。俺は自殺は多分出来ないから。靴がそろえて置いてあって遺書があったらしい。鞄の中にあった一冊のノート、中にはずうっとごめんなさい、ごめんなさいと書いてあったとか。最後に一言ありがとうと書いてあったらしいけど、それを言ったのは担任小倉らしいのでとても嘘臭い。
一体何に謝るんだ、自分の家族か友人か、死体掃除夫か。まあそんな職業無いけどな。昔から遺書を書いてこっそり鞄に居れておく癖が抜けない。俺が自殺をしないと言えるのは、そんなに不服がないことと、上手く遺書が書けないから。
「遺書のある死なんて嫌だな」
ユーリが細い眉を歪ませて言った。
「どうして」
「だって、格好悪いじゃない。自殺だったらやっぱり、錯乱してとかそういうのがいい。何か伝説になるようなやつ」
「理想は誰。伝説の自殺っていったらミシマユキオとか」
玉城が、少し首を傾がせて言った。可愛らしいその動作は、余り彼女に似合うと言えない。
「三島は、いいや。ハミが良い、ステージで血塗れ」
変なのが、好きなんだな。
「伝説って、前にした人がいないから伝説なんじゃない。ところで玉城、三島好きなの、初耳」
俺が笑いながらまっとうな横やりを入れると、玉城は笑いながら一つだけと言った。薔薇と海賊だそうだ。確かに玉城っぽい。何がそうなのか分からないけど。
「でも、あの辺の芝居好き。黒蜥蜴とか格好いいよね」
「黒蜥蜴も三島じゃなかったか」
目をきらきらさせながら言う玉城に、容赦なくつっこむユーリ。
「嘘、乱歩だよ」
「三島だよ、三島全集で読んだ」
「絶対に乱歩」
「三島だって言ってるでしょ」
ねえシュウどっちだと思う。二人が同時に言うと、放送があった。
今すぐ生徒は講堂に集まってください。
玉城、俺の勝ちだ。
集会は全くつまらない物だった。君たちもこの件に惑わされず、彼女の分まで生きて欲しいと、よく分からない日本語で煙に巻かれてみた。
俺は暇を押し殺すために、ぼんやり遺書のことを考えていた。ごめんなさいを繰り替えし続けた遺書。一番最後のありがとうはやはり担任小倉の作り話らしく、校長の話の中にはなかった。遺書が上手く書けないから、自殺はしないといった俺にごめんなさいを連呼する遺書で死ねる彼女は少し羨ましかった。それじゃあ死ねない。かといって実務一点張り遺言状も良くない、遺書に必要なのはナルシシズムとロマンチズムだ。俺はロマンチズム過多な遺書しか書けない、自分が嫌いだからだ。わかりやすい。
解散の号令が講堂でかけられた後、俺達はやる気無く教室に戻り、鞄を回収した。
「これあげる」
玉城が賭けの勝者である俺に、紙包みを渡す。手のひらに丁度載るくらいの、赤いチェックの小さな袋だった。何かと訊くとピアスだという。
「綺麗だったからついつい買っちゃった」
「金持ちだね」
「300円均一、気にしないで」
ほら、開けてみてよ。せかされて取り出したのは綺麗な青い石がはまった銀のピアス。
「これ、男がしてたらおかしいよ」
「シュウならおかしくない、むしろはまる」
いきなり後ろから声がして、驚いて振り向くとユーリ。
「女の子からのプレゼントを断るとは最低だな」
「こいつ貢ぎたくなる顔してるから」
玉城まで調子に乗って妙なことを言い出す。もうどうでも良くなって、ありがたく戴いておくことにした。貢ぎたくなるって、誕生日に財布の中からとりだした図書券くれたくらいじゃないか。」
「第一、ピアス穴開いてないよ」
「開けば良いんじゃない、やってあげるよぶすっと」
ユーリはにやにや、あの口元だけ笑う嫌な笑い方をした。いつ見てもしゃくに障る笑い顔だ。
「ねえ、完全下校まであと20分くらいあるから。図書室行って黒蜥蜴の作者調べようよ」「よし賭だ、勝ったら俺にもピアスくれ」
今度はユーリが勝つかなと思った、クロトカゲはミシマユキオが書いたんだよ、と、誰かが言っていたような気がしたからだ。しかし玉城も自信満々で、銀粘土でピアス作ってやると言う、乱歩ならユーリが大事にしている指輪をよこせとまで。
黒蜥蜴は、江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本だった。と言うことで、ユーリは指輪丸ごと、玉城はピアス片方をそれぞれ交換と言うことになった。
図書館の窓から、あの子が叩き付けられた地面が見えた。死体は綺麗だったらしい、一度、ベンチの上でバウンドして、それから地面に落ちんだと、集会で壇上の教師が語っていた、一体彼は誰にそんなこと伝えたかったのだろう。少なくとも俺は、そんなことより落ちながら彼女が何を思っていたのかの方が知りたい。
学校近くの古い石段でジュースを飲み、昼飯をとりながら、ピアスのデザイン相談となる。玉城は鞄からスケッチブックを取り出して、がりがりと鉛筆を動かす。背にした壁から枝が張りだして、木陰を作るのは良いのだが、蝉がしつこく鳴いているのが気に障る。九月なんだから、蝉も黙ればいいのに。
「しかし暑いね。焼けたくないなぁ、今年はゴルチェのコートを買ったのにさ」
玉城が空を仰ぐ。ユーリは手をぱたぱた動かしながらまた妙なことを言い出した。
「気が早いわね」
「春夏物が出るとさ、秋冬物が安くなるでしょ。大枚はたいて買っちゃった」
「なんでゴルチェで焼けらんないのさ」
「色白いほうが、黒い服着たときに綺麗だからさ」
「でもこの間、黒人モデルがゴルチェの黒いスーツみたいなの着てたけどカッコ良かったよ」
「そりゃ、その人達はそれがナチュラルなんだから。それにゴルチェは黒ばっかりとかそんなこと思ってんじゃないだろうな」
「あのブランドの魅力はフォルムと色彩だろ」
「なんか俺、最近確実にヴィジュアル系バンドのファンだと思われている」
そう言えば、元々この3人でつるむようになったのも元々着道楽のせいだったな、と思い出す。
「私達が始めてあった時さあ」
玉城も同じことを思い出していたらしい。
「入試で俺はゴルチェの鞄を持ってて、玉城はヴィヴィアンのロッキンホース履いてて、シュウはビューティビーストのマフラーしてた」
「よく受かったよな」
「まったく」
俺達は同時に言い、同時にうなずいた。
「でも、一発で分ったよ。着道楽仲間だって」
「入学式で二人を見たときに思ったもんな、ゴルチェにヴィヴィアンだって」
「玉城、最初にこいつ俺になんて声かけたか知ってる」
ユーリは笑いをこらえるのに精一杯といった風に玉城をに聞いた。
「いや、なんて言ったんだ」
「なあそこのゴルチェ、名前なんて言うの」
「むしろゴルチェが名前か」
「で、玉城見て。あのヴィヴィアンかっこいいよなーって」
「私はヴィヴィアンじゃないよ、それにしても暑いわ」
でもまあ、俺達は楽しくやってるし良いんじゃないかとくに誰にも迷惑かけてないし、バイト止めちゃったけどね。
「そう言えば、今二人ともなんのバイトしてるの」
「今は別に、夏休みの間はコンビニ弁当詰めてたよ。工場で。あそこは涼しくて良かったわ」
「ふーん、ユーリは」
「データの捏造」
なにそれ、と聞くとアンケートを捏造するらしい。マーケティングリサーチの会社にいると言った。社長に気に入られて楽しくやっているんだそうだ。
「楽しいか」
「時給1000円、不定期だけど」
不敵に笑った。
うらやましいんだけど。
「でも暑いね」
ユーリの白い喉を、汗の玉が落ちていった。
「でもこの指輪、気に入ってたのに。智さんごめんなさい」
指輪は実は貰い物らしく、ユーリは愚痴をこぼしながら、自分の人差し指から案外ごついそれをはずした。綺麗な青緑の石が静かに光を跳ね返す。
「ぐちゃぐちゃ言わないでよ。私もこんな暑いのに部屋で粘土と格闘しなきゃならないのよ、勘弁してよ。」
「ところでその連呼してる銀粘土って何」
さっきから気になっていたことを訊いてみると、玉城からいらだった返事が帰ってきた。
「銀粘土とは焼いて磨けば銀になる三菱マテリアルの素敵発明よ。てゆーかなんで人間暑いと汗が出るわけ、あー、あついあつい、絵的に暑い」
「三菱マテリアルって」
「会社の名前、それ以外に出してるとこ在るのか無いのか知らないけど。汗で鉛筆握れない、いい加減にしてよ」
玉城の投げた鉛筆は陽炎を飛び越え乾いた音を立てながら石段の下に転がっていった。ヒステリーを通り越して、やる気を無くして来た彼女と一点を見つめたまま動かなく鳴ってしまったユーリを見て、炎天下に随分陰鬱でどうしようもない俺達は、サクの店への逃亡を決意した。手抜きして、地下鉄を使う。
流石に地下鉄の中は涼しくて、やっと落ち着きを取り戻した玉城と、焦点の合い始めたユーリは、今度は地下鉄の内装に着いて文句を言い始めた。紫色の椅子の布が恥ずかしげも無くて嫌だという。
俺はさっきから溜息ばっかり出てくる。
「どうしたのシュウ、やるせない顔して。すぐ駅だよ」
「別に、やるせない事なんて無いけど」
いつものにやにや笑いをしながら、ユーリは、でもよかったよなんてよく分からないことを続ける。
「自殺があったって、シュウに聞く前誰かが話してるのきいたんだけどさ、怖かったもん、もしかしてシュウや玉城が死んだんじゃないかって。」
「勝手に殺さないでよ」
玉城がドアの横の鉄柱にもたれて言った。ドアの窓から見えるのは黒と灰色、蛍光灯がずっと尾を引いて、そこに玉城の横顔が移り込んでアニメの一部みたい。
「だって、何時死んでもおかしくない。二人とも」
「死因はなんなの」
そんなに死にたいだの言った思い出のない俺は、理解できなくて聞いてみた。
「世を儚んで、かな」
その台詞に堪えきれなくて、申し訳ないと思いながら玉城と一緒に腹を押さえて崩れ落ちてしまった。
「ユーリ、それあり得ない」
浮かんできたの涙を必死に拭いながら言うと、彼は少し気に障ったようで何でどうしてと繰り返す。玉城はまだ必死に口元を押さえ、肩をふるわせている。
「答えは保留、着いたよ」
何時も変わらぬアナウンスが、駅の名前を連呼していた。
制服のままだったし、一応平日の昼間なので補導の連中の存在を心配していたのだが、一度も声などかけられることなく、ヴィシャスに滑り込む。
「なあ、私とシュウがこの世を儚んで死ぬのってあり」
「この世の終わりにならあり」
開口一番、サクが昼間に珍しいねなんて言う前に、玉城はこんな事を言った。サクの答えも最高で、俺達は今度はユーリも一緒に、サクを放ってげらげら笑い転げた。
今日一日の出来事と事情とフルスピードと駄目っぽさを説明すると、やっとサクも少し笑った。
「ねえ、ユーリ。君ほんとにこの二人がそんなタマだと思ってるの」
「よく考えたら、ありえねえ」
「よく考えなくてもそうじゃん」
そして俺と玉城はまた声も出ないほど笑い転げた。
「でも、私とシュウがっていったら、まるで心中でもするみたいだね」
「心中。玉城とシュウが、それこそあり得ないマジあり得ない」
サクにまで大笑いは伝染したようだ。涙を堪えるように下を向いている。
「でも、俺。二人が何時に死んでも驚かない」
「どうして」
まだ楽しそうに笑いながら、玉城は聞いた。
「ありだからさ、それが」
「どうして」
こんどは俺が同じ事を、
「お前ら、死臭がするんだよ。物事深く考える奴はみんなそうだ」
それなら、ユーリもそうじゃないかと思った。死臭ならユーリが一際。
「でも、百まで生きたくはないね」
「死ぬ年齢、選べるとしたらいつがいい」
「長生きしてーな、田舎帰ってさ」
とユーリ
「私は三十五くらいで」
「なんで」
「年表とか作ったときに一番わかりやすそう」
玉城らしい、サクがそういって笑う。
「私粘土買っわなきゃいけないから、そろそろ帰るけど」
「あ、じゃあ一緒に帰ろう」
「ごめんなサク、なんにも飲んだり食べたりしないでさ」
ヴィシャスを出たところで、メールの着信音が響いた。玉城がその音を無粋だという横でメールを開く、姉からだった。あまりの珍しさに慌てて内容を見ると、親父がいるので帰ってくるなと言う話だった、姉はどこかに逃げたらしい、メールは自宅のパソコンからではなく、携帯からだったからだ。引きこもりじゃなくなってきたのかな、などと考えていると、黙りこくってしまった俺に、不振そうな目を向けていた二人が携帯を奪い取りメールを覗く。
「お前らそれプライバシーの侵害」
「シュウにプライバシーなんて無い」
覚えとけ玉城。
「ところでシュウの親父さんってさ、カテイ内ボーリョクふるう人だっけ」
「そうだよ」
心配そうに見てくるユーリが少し煩わしくて、なるたけ短い返事を返すと、今、家俺一人なんだけど、良かったら来るかなんて言ってくれて、素っ気ない返事を返したことを少し恥ずかしく思うくらい嬉しかった、なんだかよく分からないけど、とても嬉しかった。
そのまま勢いで、ユーリの家になだれ込むことになった。玉城は強く生きろ世なんて冗談めかしたエールを送ると、自分のうちに帰っていった。
地下鉄で5駅ほど、キャラメルを整然と並べたような団地の一角にユーリの家はあった。まだ外は明るい。コンビニによって、弁当を買った。
「こんな食生活じゃバランス崩すな」
まごころ弁当とまんぷく弁当のどちらかで悩んでいると。横から覗いたユーリがそんなことを言った、見るとおにぎりとプリングルスを握っている。お前にだけは言われたくないよ。
「飲み物は買わなくて良いよ、麦茶うちにあるから」
「うん。でも暑いよなぁ。アイス買おうアイス、いくら持ってる」
「あと2千円くらい」
「割り勘でハーゲンダッツのでかいの買お」
「いいね、暑いし」
その後ラムレーズンかチョコレートかでもめて、結局スタンダートなヴァニラで落ち着いた。
「ヴァニラって歌あったよね」
「知らない」
「ガクトの昔の、あーいしてもいいかーい」
「歌うなよ、ただでさえ暑いんだから」
コンビニを出て、気分的に涼しくなれるアイスの袋をどちらが持つかという話でもめて、結局ユーリが持つ事になると言ったアクシデントも挟みつつ、暑い暑いと呟きつつ。いつの間にかキャラメル団地は目の前だった。
ユーリの家は団地の五階にあった。入ると同時に窓を開けに走っていく、熱気が外にゆっくりと移動していくのが分かるようだった。いつの間にか月が出てて、熱気の代わりに部屋にひかりがそろそろ進入してきた。
「ごめんうちクーラー壊れてるんだ」
ユーリは濃紺のノースリーブのカットソーに着替えている。ショッキングピンクのジッパーと胸元のロゴが浮いている。二の腕に黒い蜥蜴が見えた。
「シール貼ってる」
「え、これシールじゃないよ。知らなかったっけ、前入れたの」
「いや、だってお前ずっと半袖じゃん」
「7月くらいかな、入れたの。胸に蝶もいるよ」
ほら、といってジッパーを開けると、青い模様の入った揚羽蝶が居た。
「ユーリはスワロティル、好きそうだからな」
「リリィ・シュシュ観れてないんだよ、早く観たいのに」
「ヴィデオ待ちか」
「うん」
ユーリの白く貧相な胸元に、映画のそれよりふた周りほど小さな蝶がいる。あんまりにも深い青に目眩がしそうだ。絶対の紺碧って知ってるかと、ユーリが聞き慣れない単語を言う。
「いや、何それ」
「深淵の濃紺だったかな、どっちも間違ってるかもしれないけど。人が生きてけない状況に、この世で一番綺麗な青が在るんだって」
「たとえば」
「そうだな、砂漠から見上げた空の青とか、海底から見上げた凪いだ水面とか」
「いいね」
「うん、そんな色でしょう。そうだ麦茶飲もう、暑いわ」
ユーリは唐突に台所に行ってしまった。差し出された麦茶のグラスは汗をかいて、それが一層熱さを演出。熱帯夜というのは、玉城の言葉を借りるなら無粋な物なのだろうなと思う。弁当を暖めるかと聞かれたが、そんなことはしたくない。ただでさえ暑いのに暑い物なんか食べるのはこれまた無粋だ。
アイスを食べよう。
ユーリはこんな時こそ状況に酔おうとよく分からない理論でもって、玉で出来た杯にアイスを盛った。そして俺その細い入れ物は飲み物はいいが食い物を入れるのには向かないと言うことを痛恨した。
そのヴァニラはホワイトチョコレートと言われても納得出来るような濃厚な味で、こんな夜に食べるには少ししつこすぎるかと思う。
「ごめん、シュウ。ラムレーズンで良かったよ」
どうもユーリも同じ事を思っていたらしくて、少し笑ってしまった。
「ラムレーズンも濃いよ。もうパピコで良かったかな、白い奴」
「男二人でパピコは流石に嫌、白いのなんかあったっけ」
男二人でソーダアイスよりはましだろう、棒が二本刺してあって真ん中で割れる奴。
「あるよ、ヨーグルト味か何かで」
今度要チェックだな。なんてぶつくさ呟くユーリ。
俺達の日常は相も変わらずに続いて、ずっとずっとこの調子で流れて。
「そうだ、玉城から貰ったピアス持ってるか」
「ああ、鞄の中に」
ユーリは、いつものあのにやにや笑いを浮かべている。
「穴、開けるか」
その人をくったような笑い方が気にくわなくて、俺は頷いた。ピアスくらいなんてことないだろう。
「センセーがごちゃごちゃ言うけど、いいよな別に」
「それはまあ良いけど、ユーリ今幾つ開けてる」
「ええっと、耳は11個だな。で舌も」
指折り数えて、また笑った。開けすぎだよそれ。普通にしていると重さで耳が歪むため、軟骨に針金を沿わしているらしい、物好きだ。学校を出たら金を作って、背中に羽のタトゥーを入れて、ゴムかパテかを埋め込み少し膨らますという。親泣くぞ。
「ピアスより入れ墨入れたいな」
「シュウに耐えられるかな、案外痛いぞ」
「やってみなくちゃ分からない」
「よく言った、さてコンパス針布団針安全ピンどれがいい」
ピアッサーなどと言う選択肢は無いようだった。
「安全ピン」
「火がいるな、こっちおいで」
台所にあった椅子に座らされた、ユーリは自分の鞄を止めていた安全ピンを一本外し、ガスコンロを回す、しばらく針を焼いた後、俺の耳をつかんだ。怖いかと訊くので笑ってやった、あのへらへらを真似て。
針が耳を突き通す。皮を抜ける感触が二回ほど在って、案外簡単に穴は開いた、血もそんなに出ない。
「気持ち悪いな、二回ぶすって言う」
「さっきちょっと痛いっていったでしょ」
にやにやあの笑いを続ける。言ってないよ、言ったよ。そんなことを言っている間にもう片方の耳にも穴が開けられていた。少し小さい穴にあの青いピアスを無理矢理入れておしまい。
「でも安全ピンなんかで開いちゃうんだな」
「これ、細くて鋭い奴だから、安全ピン洗うから貸して、洗い物貯まってるから一気にやるわ」
ユーリは何処から出したか、どら猫の描かれたエプロンをして居る。キッチンのビニールっぽい床は畳より少し冷たくて、おれはだらりと横になった。
ユーリが食器を洗う水音が、やけに大きく響いていく。
「ところでさ、生まれてくる時代、間違えたなっておもったこと無い。」
そんなこと急に言い出したユーリに、俺は驚いた。変な言い方だけど彼は今を楽しんでいると言うか、案外この時代に生まれてきて良かった様な人間だからだ。
「無いことないけど。どうして」
「俺さ、ときどき思うんだ。団塊の世代とか言って羨ましいよ、俺達には誇れる物も燃えれるもんも何一つ残っちゃいないのに」
床から見ていたんじゃ、表情は分からない。髪の毛や、綿埃ならよく見えるけど。
「俺達に、何があるっていうんだ」
そして話題は急に変わる。
「中学校卒業するとき、文集って無かった?もしくは記念の写真集の後ろの方に将来の夢とか、十年後の
私とか書かせるコーナー」
「あったあった」
懐かしくなって、緩く笑う。寝そべったまま。
「まあ俺は適当にでっち上げて書いたんだけどさ、もう何書いたかすら忘れたね。まああれにさ女子とか保母さんって書く子、やたら多くなかった」
「多かったね、後男女問わず絶対いる漫画家、しかもオタク臭いの、絵とか描いてあったりして」
「モー娘。の一員つーのもいたよね、てめーの顔見てからいえ」
俺は喋りながら、ユーリがこっちを向けばいいのにと思っていた。顔が見えないから、目が見えないから口が見えないから、何を言いたいのか分からない。
「俺の当時好きだった子も保母さんって書いてあったんだけどね、なんかそれ見て幻滅しちゃって。だってそんな職無理そうな子だったんだよ、神経質でやせてて、時々意味無く学校休んだり。ああ、この子も普通なんだ。とか思っちゃってさぁ。でも今冷静に考えると、彼女も俺と同じように適当に書いただけかもしれないし、やっぱ告っとけば良かったかなぁ。」
ユーリの、低いけど綺麗な響く声を聞きながら、俺は眠ってしまった。
ビニールの床にそうっと沈んで行く夢を見た。蛍光灯は赤く光って、オレンジと茶色と白で描かれた表層の模様を焼く。粘りけのある海に軽い抵抗をうけながらゆっくりと沈んでいく。あの赤い光は写真の暗室、沈んでいくのは実は俺じゃなくて姉だった、細い白いからだに画像が焼き付けられては水に流されて消えていく。俺はと言えばガラスのエスカレーターにのって月まで行く途中、犬の遠吠えが聞こえる、あいつは負け犬だ、俺が埋めてやったはずなのに、桜の下には死体が、俺が殺した死体が息づいている、月には桜が満開で、玉城とユーリとサクが花見の準備を、俺はブリキの自転車で駆けつけるんだけど、月の上はずっと砂漠で、ただ笑い声だけが聞こえて。
「シュウ、朝だよ」
ユーリ、月の上で花見してたんじゃなかったのか。
「なにいってんの、一旦家帰るんでしょ」
「何で」
「なんでって、学校行くんでしょ。服着替えて教科書取りに行かないとやばいし」
まあそりゃそうだと、無理矢理納得して、手渡された牛乳を飲み干して家を出た。瓶の牛乳なんて小学生以来だと、何となく感じ入っていると、何処の家にも頼めば配達してくれると、変な目で見られた。
まだ夏の気配が残る外は、まだまだ朝早いというのに随分脳天気に日差しが照りつけていた。昼に比べれば随分涼しいと言うことが唯一の救いである。
「でもちょっとびっくりした」
「何に」
「ユーリって凄い朝弱そうなのに普通に起きて動いてるなんて嘘臭い。反則だ」
「その分シュウは見たまんまだね、まだ実は寝てるんじゃない」
流石に少しむっとして、無言で肘でつつくと、ユーリは大げさに顔をしかめて、反則はそっちだと呟いた。学校への駅で下り、一旦分かれる。
家のドアを開けると、反則が待ってた。
その日、六時間目にふらりと教室に入った俺を、玉城もユーリも変な顔で見ていた。教師が苦笑混じりに、休みとかわらんじゃないかなどと言い、数人がぱらぱらと笑った。口の中に、血の味が充満している。さぼる気にならなかった理由は、俺にも実は分からなかったりする。
ああ、何もかもが反則だよ。
授業は20分くらいで終わってしまった。ホームルームの間ユーリが心配そうな顔をしてこっちをちらちら振り返るので、少し煩わしい。玉城は俺より後ろに座っているのでどんな顔をしているのか分からない。ほおって置いてはくれないだろう。脇腹が随分痛む。親父がさっき容赦なく蹴り飛ばしてくれた後だ。俺はもう何もしたくなくなって、机の上に俯せになった。
目を開けると、センチメンタルな紅茶色の光が充満していた。玉城が教室の窓にもたれて文庫を読んでいる。耳にしたヘッドホンが、まるで空気と玉城を分ける境界のようだと思った、銀色のエッジが夕日に浮いている。じっとそちらを見ていると、本から目を上げて彼女が笑った。
「起きたのか」
曖昧に返事を返して、身を起こす。変な体勢で寝ていたので、腕や背中が軽く音を立てた。ユーリはもう帰ってしまったらしく、居なかった。
玉城がヘッドホンをはずす、両腕をゆっくり耳にあて前にずらす、右腕と左腕に一つのずれもない。白く見える右腕の裏側、血が通っているなんて信じられそうにもなかった。
「何を聞いてたの」
「インディースビジュアル系バンド」
唇の端をつり上げるさっきとはうって違った笑い方から、きっと玉城好みの皮肉だとか、わかりにくさとか、わかりやすさだとかそんな物が詰まったバンドなんだろうと思った。頬杖を突いて、ぼんやり窓の外を見た。なにか部が練習しているのか、さっきからかけ声とか、そんな物が聞こえて止まない。
彼女も窓の外を見ている、そして小声でひっそり歌っている。歌詞の内容はビジュアル系でもないなと思った。掠れた声でただいまと言うフレーズを何度も繰り返す。
「なんかな、夕焼け見てると思い出すんだ。この歌」
歌い終わってしばらくたった後、唐突に玉城はそんなことを言う。
「なんで」
「歌詞の中に出てくるからかな。夕焼け空。」
「玉城の連想って案外安直」
「いいじゃん、べつに」
そしてそのまま続けて歌っていく。
案外好きな歌だと思った、ビジュアル系ってよく分からないけど。
その日も、夕焼けを見て、その歌を思い出していた。
「なあ、その傷また親父にやられたのか」
玉城が遠慮がちに聞いてくる。ヴィシャスにおなじみ三人で行く途中。斜めの光がゆっくり落ちていく6時過ぎ。
「そうだよ」
その日は右目に眼帯をしていた、眼帯をずらして見せる。痛いとかけがだとか言うんじゃなくて、大きな痣になっててあまりの見苦しさに学校に来る前慌てて薬局に行っただけだったから、心配ないよというと、彼女は前もそんな風になっていたねといって少し笑った。
「パンダみたい」
ユーリが言うので、前玉城も同じ事をいったよというと、シュウは色が白いからと呟く、白と黒のコントラストでパンダに見えちゃうんだよ。
「うちにも一匹パンダがいて、デットベアなんだけどさ、名前勝手にとらぼるただったけど、今日からあいつはシュウだ」
そして俺の方を見てにやりと笑う。
「とらぼるたって、そんな事言ってるからヴィジュアル系ファンだって言われるんだよ。今度からシュウって呼ばれても反応しないからね、パンダに語りかけてな。」
「それは酷くない、振り向くぐらいリアクション取ってよ」
リアクション取るとつけ上がるでしょうと、どうでも良いおしゃべりをしながら、階段を下りて、ドアを開く。サクは何時も通り、一人でなにか読んでいる。
「気楽そうだね」
声をかけると、ぱっと顔を上げる。
「何読んでるの」
軽やかな動作で、玉城は彼の手から何かプリントされたらしき紙束をつまみ上げた。横からユーリが覗き込む。
「家庭内暴力における子供の心身の傷、随分悪趣味なもの読んでるね」
玉城が片眉歪ませながら言った。
「本当は好きな訳じゃないよ、ただ自分が知らない事を見てみたかっただけだ」
投げやりな口調で、サクは言った。玉城は俺のことを振り返り、予測もできなかった台詞を吐いた。
「ほら、ここに実例が居るじゃない。何でも聞けば」
「じゃあシュウ、その怪我って」
サクが驚いたように、俺の眼帯を見る。ユーリは溜息をつきながら、手近な椅子に座った。
「……ごめん」
小さく、サクが呟く。屑だ、全て。
「どうして謝るの」
理解できないと言った顔で、サクが俺を見る。玉城も振り返る、ユーリだけが壁をにらんでいる。
「なんも悪いことしてないじゃない、どうして謝るの」
「だって、そりゃ」
「俺は謝って欲しくなんかないよ」
「……ごめん」
「どうして謝るの」
どうすればいいか分からない静かな時間が流れて、耐えきれなくなった玉城が煙草に火を付け、吸わないユーリは手持ちぶさたに貧乏ゆすりをするだけで。
「謝って欲しくなんか、ないんだよ」
俺もどうすればいいか分からなくなって、同じ事を繰り返し言うくらいしかなくて。
早く、時間がたたないかと、思った。
こんな時、煙草があればいいのに。ずっと前から切らしている。時間が重くつらくなったとき、俺は無性に煙草が欲しくなる。実は肺に貯まっているのはタールなんかじゃなく時間の死骸なんじゃないだろうか、しゃべれない、喋りたくない、行き場のない手持ちぶさたな時間を煙と一緒に飲み込んじゃえば、少しは気楽になるだろう。
「自殺の現場って今どういう風になってるの」
急に訪ねるのは癖らしい、それとも話題を変えたいのか。サクが玉城の方を見て言った。「どうって何も、花とか、菓子とか置いてあるよ」
「事故との現場と一緒なんだね」
サクが大げさな瞬きを繰り返す、ユーリはちょっとそのサクの目を覗き込むようにして言った。
「もしかして、行ってみたいとか」
「店閉めても文句出ませんよね」
この店、何時来ても俺ら以外の客ほとんど居ないし。
「ところでアスレチックは得意か」
「まあまあ」
「校門乗り越えるから」
堂々と宣言したわりには、とてもスケールの小さな話だった。もっと格好良く行こうよ。
俺達は意気揚々と夜の町並みを闊歩し、学校までたどり着いた。ユーリ、俺、玉城、サクの順に軽やかに校門をよじ登る。いきなり警報とか鳴り響いたらどうしようかと思っていたのだが、何も起こらなくて安心した。
夜とはいえ、最近は真っ暗闇なんて在りえない。近所の家かそこらの街灯かそれとも空気が熱と一緒に光をためて発光してるのか、とにかく案外明るくて、辺りはそれなりに見えた。むしろ綺麗なくらい。校庭の隅の植木達も、少し明度を上げてはいたが、やはり木やらなにやらがまるで化石化でもしたかのように、静かに物体としてその屍をさらしていた、白いさらさらした骨のようだと思った。いつかの玉城じゃないけれど、見たくない物は闇の中に沈んで、見たい物はより綺麗に。
ベンチの前にテーブルが置いてあって、沢山の物が積んである。玉城がその花束から百合を一本取り出して、サクに持たせた。
「似合ってるよ」
「嬉しくないよ」
いきなりユーリは机の上にだらりと身を任せた。
「人間って、不完全な屍として生まれて、そして完全な屍となって死ぬんだってさ」
「ああ、ちょっと分かる」
「そうじゃないよ」
俺の同意の声と、玉城の否定の声はほぼ同時だった。そして彼女は続ける。
「人が死ぬのは二回、一度目は心臓がや脳味噌が死んで、その人に腐る焼かれる以外の選択肢が無くなるとき」
「次は」
「次はその人のことを覚えている人が誰もいなくなったとき」
「それ、俺が言っているのとは別の問題だよ。でも、その通りかもしれない」
「人が死ぬって、いったい何なんだろうね」
サクが呟いた、その一言が忘れられなくて、その疑問はずっと残っている。
ずっと後、雨の寒い時にその答えを考えてみた。だけど死人に対する悔やみの言葉はない、在るのはただ生き残った人に対する慰めの言葉だけだ。君は悪くない。救われてくれ救われてくれどうか君は君は悪くない。
陰湿なつぶやきが、コンクリートの壁を浸食していく。俺は手持ちぶさたで意味無くビールの空き缶を転がす。雨が降っている、雨が降っている灰色のコンクリートの空から日の光が切り取られた天窓からさして雨粒に代わりゆく。雨が雨が降っているざぁざぁと、静かに壁に横たわって死体のふりをするカモフラージュをする俺の体を溶かしてくれ雨。今日はT-シャツにジーンズだ、カジュアルだ、俺をつなぎ止めていたピアスもベルトも安全ピンも無い服。だから分離してくれ、肉と心を、腐ったマヨネーズみたいに。ベンチの隣の机に置かれた供物の山。命の値段を確かめようか、カサブランカ500ポッキー200トルコキキョウ200バラ150コーラ150ひまわり300ポテトチップス180スターチス100クー150カフェオレ110チョトス130……花7000、菓子1500、飲物、2000とみた、葬式代その他もろもろよく分からないがだいたい数十万ほど。命の値段はいつの間にか死の借金にすり替わる。俺の値段を計ってみて、自殺では生命保険はおりんのだよなぁ。
いくら俺がここでねっころがってたって何もならない。霞んだ頭で世界の全て、分かったような気分になっている、判断力が鈍るとときどきこうなる、過去も未来も急に強い光で満たされて全部よく見えるようになる。でも本当は何一つ分かってないのを知っている、何か分かれば、俺は小説が書けるんだろう。でも書けないんだ、何も分からないから。
俺は助けてやれない、ユーリも玉城もサクも、姉も親父も飛び降りた彼女も。ずっと泣いていなかったのに、急に目が潤んできて、悲しくなって、意味もなくぼろぼろないた。
もう、思い出す歌もない。
俺は、屑じゃなかったよ。
世界も。
でもそれだけ。
それだけなんだ。
俺は、屍だ。
不完全な、屍なんだ。
きっとみんな、そうだ。
月の光があまりにも白すぎて、俺は随分感傷的になっているみたいだった。太陽が昇ればきっとポジティブシンキングだって可能だろう。夜明けまで後何時間耐えればいい。
俺は意味のない涙を流しがらかなり冷静だった。
夜明けまであと、4時間も無いだろう。少し眠ってしまおうか、ここで泣き続けようか。そんなことを考えながら俺は単調な眠りへと落ちていった。
心配要らない、俺は冷静だ。早く太陽が登りますように、どうしようもないことを祈って眠った。
おつかれ。