「ねえ、何処へ行くの」
季節もどこかへ消えた、四月の曇り空。アスファルトの上を滑る風は温くも寒くもなく、かれの柔らかそうなバーントアンバーの髪を揺らしていた。大きな交差点の角の歩道の中、小さな花壇に一人腰掛けて、輪郭も危うげな、少年が一人。
十六、七だろうか、その年頃にありがちな油っぽい感じが微塵もないのが、変にリアリティまで消し去っていて。微かに色のある唇だけが、ポツリ、浮いているようだった。
なんて綺麗な子だろう、と思った。
私は青黒くなった瞼を押さえて、地名の変わるポイントを早足で過ぎたばかりで。張られた頬がまだ痛む気がして、でも右手一本じゃ全てカバーできなくて苦労しているところだった。
「お嬢さん、」
ねえ、とまたかれは、灰色の目を私へ向けた。その時私はようやく、先刻の質問が私に向けられた物だということを理解した。
「何処へも行かないよ」
いろんな事を諦めながら、私は花壇に、彼の隣に座った。黒い、中学校の制服。プリーツスカートが少し歪んだけれど、もう直すのさえ煩わしかった。
私の黒く重い髪も、少し先を車が通るのに連れて揺れた。かれはもう何も言わなかった、私の痣のことも言わなかった。灰色の目だけ、じっと、揺るがせないでいた。
「何処へも行けないんだ」
それが、私と、荒野の出会いだった。
荒野は美しい少年だった。けれど少し頭がおかしいようで自分を恐竜だと言い張っている。
綺麗な幹の色をした髪を、何の意味もなく触りながら、真っ直ぐすぎて突き抜けて後ろの壁を見ているんじゃないかと思うぐらい真っ直ぐ私を見て、何時も言うのだった。
「僕はホントは恐竜なんだよ」
私は笑いながら、それに付き合った。
「目的は何なの、恐竜さん」
荒野も荒野で、薄情そうな唇の端をちょっと吊り上げて言うのだ。
「サイト・シーイング。ねえだからどっかつれてってよ」
私も大分おかしかったのだろう。あの日交差点で会った荒野を連れ帰ってうちに置いた。一応母親と二人暮らしであるのだが、彼女は私の部屋になど入らない。
隔離されていると言っても良いだろう。それ程までに私達は別の人生を歩んでいた。私達が触れるのは、母がたまに癇癪を起こして、私を殴るときだけだ。よく似た、多い髪の毛を振り乱して平手で私を殴り続ける母を、私は悪鬼のようだと思っていた。母らしさなど微塵も感じない姿で、容赦なく手を撃ち下ろすのだ。
初めて荒野にあったときの、赤黒く染まっていた私の瞼も、腫れた頬も、そのせいだった。
荒野の嘘は、私にとって都合のいい別世界だった。私が少しの意地悪心を起こして、あら探しをするように細々としたことに突っ込んでも、それは破綻を見せるどころかますます完璧を極めた。
それはありがちな、まるで漫画のような話だったけれど、荒野が自身で考えていると思うと、結構な物だった。
この地球とよく似た別の進化の仕方をした地球があって、彼等恐竜達はその星で栄華を極め、さらにその地球とこの地球を行き来する方法を知っている。
そして実は年間何万という恐竜達がこの地球に観光のため訪れる。恐竜は外見や発音方法も人間とは違うのだが、そこは進んだ科学でなんとかしている。乱暴に要約すれば、大体こんな話だった。
この話を聞いたとき、荒野には悪いけれど私は三流の漫画だと思った。それなのに大まじめに話すかれを見ていると、段々面白くなってきて、最後には笑い声を上げながら床を転げ回った。荒野も最初は憮然としていたが、あんまりにも私が笑うから、気がつけば一緒になってゴロゴロ、ゴロゴロ床に伏して、居た。
ふと、荒野は私の手を取って言う。
「どっかつれてってよ」
いいよ、と考えるより先に私は返事をしていた。かれは賑やかなところが良いな、としっかりリクエストも忘れなかった。
電車に二十分ほど乗ると、繁華街に出る。ベッドタウン的な私の住む町とは全く違う風景が広がっていた。人人人、天をつくようなビルが幾つも。雑踏の中にいると、私は息が苦しくなる。
日曜日だからだろうか。これほど沢山の人が、一人一人意志を持っていて、何か目的があって、ここに集まって、ユラユラしているのを考えると、急に私に供給される酸素が少なくなるような、そんな気分になってしまう。
貧相な街路樹に寄って、少しだけゆっくり息をしてみても、口中を排気ガスと人の匂いが満たして、空気なんてちっとも入ってこない。
それなのに、荒野は楽しそうに。町だ人だとはしゃいで跳ねるように走っていく。手でも繋いでおけば良かったと、すぐ反省する事態になった。後ろを振り返らず、走っていく彼の背中は、すぐさま人混みに紛れて、私は一人そこにポツリと立ちすくむことになった。
やっぱり、恐竜なんて嘘だったんだろうと、そんな考えが徐々に水位を上げていく。かれは、どこかの高校に通う、普通の学生で、私みたいな、つまんなそうで、可愛いわけでもない、至って普通の一般人を捕まえて、ゲームのように騙すのを趣味にして居るんだろうか。
とにかくもう逢うこともないだろう、この町だけでも人は何万人もいるんだから。
「楽しいねー!」
後ろから急に聞こえた脳天気な声に、驚きながら振り返ると、そこに荒野は居た。
「なんかさあ、大体一緒なんだよ。そりゃ細部は違うけどさ、種族は違っても地球に生きてるって言うだけでこんなにやること一緒なんだねえ。階段とかさ、僕らのトコにも在るんだよ」
興奮しきった様子で手を意味もなく動かしながら、かれは止めどなく喋り続けた。
「アレは何で動いているの? ああ石油、一緒だね。やっぱり使える資源って限られているもんね。やっぱり石炭とかからの移行があったの? ガスは使うの?原子力もあるんだよね?」
答えを挟む隙すら与えず、一方的に喋り続ける。質問は大きなスケールから、いきなり小さな話。たとえば犬が服を着ている意味まで跳んだりして、全て私がきちんと答えを言わぬうちに次の質問に移るのだった。
下らないことを考えていた自分が情けなくなってきた。荒野が恐竜だろうと無かろうと、かれは今ここにいて、答えさせてくれないとしても私に向かって話しかけている。
それだけで良いんじゃないか、そんな風に思って、一人で納得していると、まだ続いていた質問の後に、付け加えるようにかれは呟いた。
「ゴメン、お腹空いた」
恐竜も、お腹ならすのかなあ、なんて意味もないことを考えた。
とりあえず、コンビニで何か買って家に帰ろうということになった。まだ日も在るというのに沢山の電灯のついたコンビニに、少し驚いた様子で、それでもまだ楽しそうに辺りを見ている。
食べられない物などを確認すると、長居は無用とばかりにさっさとレジに持っていく。荒野の答えは至ってシンプルで、ナシということだった。
かれは雑食の恐竜だという。そんなところまで人間と同じ様な進化をしたんだなあとおもうと、少々感慨深い気もした。
駅から家までの帰り道は、長く緩やかな下り坂で終わる。長く長く伸びた影を、私は少し離れたところから見ていた。夕焼けは大きく、盆のように素直に輝き、刷毛で引いたような雲は淡い藍に染まり、荒野の頬をも綺麗な赤に染めている。
「なんでそんな離れたところ歩いてるのー」
ふと振り返り、かれは言う。
「だって歩くの早いんだよ。置いてきぼりになっちゃう」
「じゃあこうしようか」
立ち止まっている間に近づいていた距離を、かれは少しだけ走って一瞬で埋めて、私の左手を握ったって笑った。
「ほら、これなら歩幅も合う」
荒野さあ、と私は呟く。そっちでどうだか知らないけど、こういうのあんまりやらない方がいいよ。
「なんで」
「在る程度年取った女の子と男の子は普通あんまり手は繋がないの。恋人とかなら別だけど」
「それくらいなら良いじゃん」
「私が照れる」
「なんで」
また、あの灰色の目で、荒野はじっと見る。こんな風に人の目を見る人なんて最近居ないよなと思って、人じゃないんだと思い直す。
「そんなんじゃないって解ってるんだから良いじゃん。僕、哺乳類に欲情できないし。猿とか、無理だから」
「ああ、そっか」
「そうです」
荒野に負けないように、じっと目を見返して、二人で笑った。左目の上に張り付けたガーゼのテープが、引きつれたのが解る。滑稽な、笑顔だろうけど、構わずくすくす笑い続けて、いつの間にか夕日も地平線にほぼ沈んでいる。帰ろう、かえろう。唄うように言って少し早足で歩き続けた。
「っていうかさー、荒野そんなにホイホイ恐竜ですって言っていいの?正体ばれたら捕まって解剖とかされるかもよ」
「大丈夫ですー。君が誰に喋っても頭がおかしい扱いされるのがオチ」
たしかにね、と私は呟く。最初はそう思っていたし。
「後は、煽てたり脅したり君は選ばれたって言ってやるとかね。人間なんて単純だし、いざとなれば記憶を消すなんて簡単だからね」
遠くを向いた荒野の顔は、いつもより赤みを帯びていて、作られた姿っていうのが信じられないくらいで。何となく、ずっと思っていたことを、今なら聞ける気がして私はもう一度かれを見て、言った。
「嘘でしょ」
「何が」
「サイトシーイングって」
その時の、荒野の顔を忘れることが出来ない。表情だけは笑ったまま、かれは一瞬、灰色の目にきらりと金色の光を浮かべた。ああ、は虫類なんだなあって、思った。
「ほんとはね、家出」
「なんでまた」
私も、顔だけは笑って言う。深刻になってはいけないのはよく解っている。私達は、似ている。恐竜だけど、人だけど、似ている。だからあのとき、交差点で、私は荒野を見つけた。だって荒野の灰色の目は、左目だけだったから。もう片方は、真っ白な眼帯に覆われていた。
「なあんかさあ、何で生きてんのかなあって思っちゃったわけですよ」
「思っちゃったわけです」
俯いて、見えない。眼帯も、灰色の目も、全て消えた。人のふりをした恐竜も、殴る母親も、電柱も壁もガードレールも空も、世界全部消えた。
「思っちゃったわけですよ」
無意味に、二度繰り返す。それはまるで私の気持ちを代弁するようで。私達はやっぱり、少し似ている。
「でも、本当に観光には何度か来てて。ここでは哺乳類が進化してて、在る程度上手くやってて。僕らは何のために進化したんだろうって、変な気分に、何時もなる」
「別に、人間だって上手くやれてるわけじゃないけどね」
ほら、といって顔のガーゼを指さしてやる。荒野は笑って、お互い因果だね、なんて呟く、その年寄り臭さに、思わず私も笑った。
家というほど暖かみもない、狭い団地の一室に帰ると、もうすでに母は帰ってきていて、早いなと思うけれど、何の声もかけずに自室に入る。
母も手慣れた物で、まるで私など居ないようにパソコンに向かって何か作業をしていた。ノートパソコンの上で踊るような指は、白く細く。私を張り倒し、殴り、床にたたきつける手には到底見えず、余計に私を哀れにさせる。
だらだらと自室で他愛もない話をして、スーファミのマリオカートなんて古代の遺物を引っぱり出してきて、操作を教えてみた。荒野は思ったより飲み込みが早く、もしかして恐竜の世界にもゲームがあるのだろうかと思った
数時間も続けると、かれは私を負かすまでになり、ノコノコが一番使いやすい。と、まで言う。
夜も二時を回り、明日学校だからもう寝るよ、と宣言とまでは行かないけれど、告げて。シャワーでも浴びようと思って、ダイニングを通りがかると。母がまだ起きていた。荒野のおかげで、ちょっと気分が良かったから一声だけでもかけてみようかと思って、もう寝たら、お母さん。と小さく言ってみた。間違いだった。
「あんたのために働いてるんじゃない!」
手元にあった、少し掌からはみ出すくらいの紅い、金属製の灰皿、握って煙草の灰が飛び散るのも構わず、投げた。後ろの壁に当たって、ごとんと床で音を立てる。一連の動作、結びつけてちゃんと解るまで時間がかかった。
「男、連れ込んでなにしてんの」
「何もしてない」
「嘘」
ゆらり、立ち上がって。今度は空っぽのワインの瓶握って、寄って、身構えるより早く私の方に向けて振り下ろした。
「あんた私の事なんて考えてないんでしょう!」
ヒステリックな絶叫が、遠くで聞こえた気がした。割れずに瓶は母の手元で静かなマラカイトグリーンに沈んでいる。結構頑丈なんだなって思った。
それからどうしたのかよく解らない。抵抗したって何にもならないのは長年の経験上理解しているし、頭を抱えて床に丸くなって伏せて、それから何も考えないようにした。ただ鼻血が出て、気に入ってた浅縹のチュニックが汚れて、悔しいなって考えたのだけ、覚えてる。
気付けば、もう朝は来ていて、自分の部屋の狭い窓の狭い空からも、白い光がちらり零れている。心配そうに覗き込んでいた荒野にちょっと笑いかけてみた。
「大丈夫?」
「うん、慣れてるし」
いたたたた、自虐のために口の中だけで微かに呟いた、まだ少し血の味がした。躯の節々が痛かったが、別に大した異常もないようで、少し安心した。
昔、小学生の頃。玄関から引きずり出されて、団地のコンクリートの階段から蹴り落とされたときには骨が折れた。その前から何も食べてなかった私は、泣くことも出来ず踊り場に転がったまま、一晩中、私が何をしたんだろうって思って。
「大丈夫じゃないね」
今更その時の涙か解らないけれど、ボロボロ零れてきて。
止まらなくなった。
「側に、居てあげるよ」
「……ありがとう」
学校は、休んだ。
その日から、私は学校を休み続けた。母は何も言わず、ただ食事だけは作ってくれた。
一応、荒野の分も。私達は毎日何処へも行かず、だただらだらと部屋の床に寝転び、音楽を聴いたり他愛のない話をして、マリオカートなど続けて、私だけが一方的に連敗記録を伸ばした。母も部屋まで来て暴力を振るうこともなく、あの日の朝の光のような、静かな日々が続いた。
「恐竜の世界にも、音楽ってあるの?」
何回めかの夜に、私はこんな質問をした。
「あるよ。うたも」
結局一度も外さなかった眼帯は、この日も白く輝やいていて。
「歌ってよ」
「良いけど、翻訳装置止めなきゃ。翻訳を止めると、お互いの言葉も解らなくなるよ」
「いいよ、側にいれば気分くらい解るでしょう」
「じゃあやろうか」
「あ、まってじゃあついでに荒野の本当の名前が知りたい」
「荒野って本名だよ」
「それは意訳でしょ。恐竜の発音で知りたい」
首の、硝子玉を摘んで唇に寄せてみた。冷たい硝子がちょっとだけ曇った気がした。翻訳コンニャクみたいなものなのかな、と、そんなことを考える。
私はそっと、荒野の隣に座った。寒いときの猫みたいに、少し近づく。荒野は硝子に手を伸ばし、そっと一回だけ触れた。
次の瞬間、荒野の口から聞こえたのは、まるで洞窟の中で微かに音が反響しているような変な声だった。時折、微かに鳥の鳴くような声も混ざって聞こえる。私は荒野に身を寄せた。かれはまだ少しづつ長い言葉をはき続けている。荒野という意味を持つ言葉は恐竜の中ではよほど長い単語なんだろうか。
いつの間にか、それは歌になっていた。人ではないものが歌う歌を、私は初めて聞いた。
たしか良くできた着ぐるみのような物を着ているのだっけ、は虫類のくせに暖かだ。でも私よりは大分冷たい。清明な荒野の躯に触れていると、身の回りのもが少しづつ意味を奪われていく錯覚に陥る。今まで本当と思っていたことが一瞬でがらくたに変わるようなそんな気がする。
「もっと、歌って」
私は荒野の目を見て言った。灰色の目が不思議なように煌めき、金の光を帯びている。蜥蜴の目だ、そう思った。
「止めないで」
その日、私は遠くの世界の歌を聞きながら眠った。
翌日、私が久しぶりに引っぱり出した制服に着替えていると、床に伏したまま眠そうな声で荒野が言った。
「チェコ、何処行くの」
「学校」
チェコ、というのは私の渾名だった。最初、アレノと名乗られたとき、偽名だと思って私も適当な名前を言った。アレノが荒野で、どうも本名らしいということに気付けなかったのは、彼のアクセントが少しおかしかったからだ。それを言うと首から下げた青い硝子玉を手で玩んで、翻訳装置が悪いんだ、と返す。
私は笑って、ちゃんとしたのを買わないからだ、と続けた。
「私も本当の名前を教えて上げようか」
「ああ、それは。是非」
穏やかに笑って、荒野は応じる。
「千恵子。千に恵まれた子でチエコ」
「恵まれている?」
少し、心配そうな顔でかれは言った。
「多分ね」
あくまで冷静に、私は返す。
それが私の見た、最後の荒野だった。学校から帰ってきてみると、私の部屋は少し前のようにがらんとして。母は私を無視して今日もまたパソコンに向かっていた。
「おかあさん」
「何よ」
「荒野、帰っちゃった」
ふ、とそんな擬音が似合う笑い方をしたのが、テレビの光を受けた白い顔の揺れたので解る。暗い部屋の中で、そこだけが冷たく、明るい。
「私のせいだって言うの」
「別に、誰の責任でもないけど」
背にした、壁がやはり闇の中に沈んでいるのを、ぼんやり意識しながら、今私はどんな顔をしているのだろうかと思う。泣きそうな顔だろうか、惨めな顔だろうか。それとも何も感じずにここに突っ立っているのだろうか。
少し、開いた唇の、さっき塗った粘りけのあるグロスに、髪が一本ほどくっついているのを、親指と人差し指で慎重に剥がす。甘い匂いのする、オールドローズピンクの、光る粉の入った、グロス。
「ただ言いたかっただけ」
おかあさん、と私はまだ光る唇で続ける。私達もっと上手にやれないのかな。何度も心の中で繰り返した質問を、またころりと転がす。それは言わない、けど、こっちむいてよ。と殆ど無意識で私は言っていた。
母は面倒くさそうに、こちらを向く。呆れたような目で私を見て、口を開いた
どうせまた、傷つけるための言葉だろう。そんな風に思って、立ったままそっと身構えた。のに、続く言葉は私の予想を裏切って、母で。
「ちゃんと食べてるの? あんた随分足細いね」
「うん、」
大丈夫だよ、と、言いかけた言葉は、急にこぼれた涙に邪魔をされてどこかへ行ってしまった。いろいろなところが引きつって、思考も発音も邪魔をされて、それでもそんな一言がなんだかとてもとても嬉しくって、わたしはぽろぽろと涙を流し続けた。母はゆっくりと立ち上がり、私の躯をぎこちなく抱く。
少し、事態はよい方に転んだのだろうか。それともこれはまるで小春日和のような気まぐれだろうか。恐竜より確かな体温がある。大丈夫だ、そう思った。分かり合えなくても、そばに寄れる。そして私には保護を求めることも、ここから逃げ出すことも、出来る。
荒野は、きっと家に帰った。かれの隣にも今誰かいるんだろうか。恐竜でも、くっつけば暖かいのだろう。寄り添って眠る人がいればいい。
私と母が、これからすぐ上手くやっていけるとは思わないけれど、それでも今日、私を抱きしめてくれた。忘れないだろう。そう思った。お母さんの暖かさも、荒野のことも。
学校から帰ってくる途中の、晴れた空のことを思い出した。荒野は同じ空の下にも居ないけれど、それでも私達は似ている。
■荒野を行く■